10/23/2015

講義当日

今回の講義は、個人として受けたため、調査や準備は週末や帰宅してからの時間を用いて作業してきた。今日も有休休暇をとって、今自宅で準備をしている。

自分の場合、コンテンツやメッセージが最重要で、「プレゼンテーション」のメソッドについては、いつも最後、講演直前に作成する。 今回は、HTML5を利用したクラウド型とした。

このブログには作業日誌のイメージで日々の断片的な作業についてメモしていたが、他の人にも読めるようにしたものはこちらで読めるようにした。

配布用の英日対訳文書は、修正を重ねに重ねたが、ほぼ仕上がった(と思う)。 この文書中に記載しているようにスピーチの草稿オリジナルは、スタンフォード大学が公開しているものを使用しているが、昨日他の方が 訳されたものと比べていて、「実際にジョブズが話した内容と違う」ことを発見した。これはおそらく、スタンフォード大学が掲載しているものは、 ジョブズから受領した原稿で、ジョブズは基本的にはそれを読み上げたが一部アドリブとなっている、ということだと思う。後で、 差異にについて確認してみようと思う。

10/21/2015

LaTeXで営業ツール、「送り状」を作成した

講義のほうは、個人対応ということで、平日帰宅してからの時間や週末を利用して作業しており、当日(10/23)も 有給休暇をとっている。現在の「本業」は、一言でいうと営業になるが、営業では見積や請求書等を 郵送するのが重要な仕事となる。請求書等の様式は、受注を扱うシステムが生成するので、自分で編集しないが、 まさか請求書だけを封筒に入れて送るわけにもいかない。ということで、送り状を作ることになる。 最初の頃は、まったく余裕がなかったので、他の人がWordやExcelで作成したものを共有してもらい、 対処していたが、ずっとLaTeXで様式を作りたいと思っていた。

ということで、flashleft, flashrightなどを使い挑戦してみたが、実際にやってみると色々問題があり、 予想以上に難しい。何が、難しいかというと、

  • 見慣れた?Wordに比べると、デフォルトの10ptは文字が小さすぎる
  • 普通にLaTeXで組むと、行間が広すぎてしまう。特に窓枠がついた封筒で宛先を表示すると、すかすかで非常に見苦しい
  • (これは自社の封筒固有の問題かもしれないが)窓枠が上のほうにあり、どうやっても住所が表示に収まらない

試行錯誤を繰り返し、以下のように対処した。

  • jsarticle[a4j,11pt]を用いる(これでほぼWordの10.5ptと同じ大きさになる)
  • 宛先の部分は、行間を81%にする(これでほぼ違和感がなくなる)
  • ページヘッダの領域について、\setlength{\voffset}{-1in} した上でパラメータを調整する
最後の項目について補足すると、LaTeXでは無条件にページの上端1インチを使わないようになっている。 そのため、ページレイアウトに用いる各種パラメータを0にしても、どうしても表示が下のほうに なってしまう。 そこで、その1インチを減じることにより、ページ上部を使えるようにする。

その他、郵便番号の表示を大きくしたり、社名や受け取り者の名前を大きくしたり調整した結果、 ほぼ満足できる状態が実現できた。しかし、そのままでは宛先ごとに文書を 編集しなければならないので、送付先や送付日、送付物一覧などをパラメータとして切り出し、 それらを設定するマクロを書いた。また、社のロゴをincludegraphicsした。

他の方からいただいた送り状と自分で作成したものを見比べたが、 「手間と時間をかけずに送り状を作る」なら、圧倒的にWordが有利だ。 しかし、Wordで作成したものは、ほとんど調整の余地がなく、見て美しいという レベルにするのは難しいと思う(Wordマスターならできるのかもしれないが)。 それに対して、LaTeXで組んだものは、環境を用意したり、最初のバージョンを組むまでは 時間がかかるが、一旦できると手間がかからず、印刷したり、封筒に入れたりしていて 自分でも気持ちが良い。

ということで作成した送り状を見たいという方は、是非ご発注ください(笑)。

John Hennessy学長によるジョブズ紹介の原稿

内容未確認だが、John Hennesyスタンフォード学長(当時)による、ジョブズ紹介の原稿を紹介しているWebサイトがあった。

  • http://www.singjupost.com/steve-jobs-2005-stanford-commencement-address-full-transcript/

「英語で読むスティーブジョブズ」と「アップルデザイン」

横浜市立図書館で、「英語で読むスティーブジョブズ」と「アップルデザイン」を借りてきた。

「英語で読むスティーブジョブズ」は、トム・クリスティアンによるジョブズの生涯の紹介で、167ページの 薄くコンパクトな本だが、コンパクトに気持ちよくまとまっている。 また驚くべきことに、今回相当数の資料を調べている自分が読んでも新しい情報や発見があった。 これはおそらくトム・クリスティアン氏が、他のジョブズ本と違う情報源をあたったということだろう。 本には、MP3形式のCD-ROMもついている。

もう一冊、アップルデザインについては、カウンターから予約していた本を渡されたとき、 その巨大さに驚いた。この本は、「ジョン・アイブ」の中で、必読書として 紹介されていたが、今まで手にした本の中で、もっとも大きく重い本で、 「Fearless Genius」が小さく見える。 この本は、アップルのデザイナー達が設立20周年を機会に、出版されたが、 「ジョン・アイブ」では、その出版の背景について紹介しているので、 興味ある人は読むと良いと思う(背景を知るときっと自分のように読みたくなるだろう)。

「ジョン・アイブ」と「英語で読むスティーブ・ジョブズ」「アップルデザイン」には、 見えない共通点があり、つながっている。その軸は「デザイン」だ。 不思議な偶然を感じた。

10/13/2015

「スティーブ・ジョブズの真実」、「スティーブ・ジョブズ」を観た

「スティーブ・ジョブズの真実」、「スティーブ・ジョブズ」を観た。いずれもよくまとまっており、エンターテイメントとしても十分成立していた。 成功の要因は、「主題の選定」と「大胆な(主題に沿わない)テーマの切り捨て、にあると思う。「スティーブ・ジョブズ」では、起業期のエピソードにやや時間をかけすぎかもしれない。 キャスティングが実在の人物に似た人を選んでおり、エンドロールで本人の写真とキャストを並べているのは、なんだかほほえましかった。

まったく関係ないけれど、稲垣潤一「男と女 4」に高橋洋子さんとのデュエット曲があるのを知り、聴いてみた。このシリーズでは、「男と女」に次ぐ2曲目となる。

10/12/2015

スタンフォード大学講演の日本語訳を文書にまとめた

ジョブズがスタンフォード大学で行ったスピーチについて、スタンフォード大学が公開している草稿とそれを自分で訳した内容について、LaTeXで文書を作成した。

10/08/2015

ジョブズの思想のエッセンス

「The Lost Interview」について

ジョブズは、自分自身で本を書いていない。インタビューも嫌いだったようで、あまり多くは残っていない。 そのジョブズが、NeXTが行き詰まった時期に単独でインタビューに応じていたが、あろうことか テープが行方不明になってしまっていた。そのテープを関係者が個人的に保存してあったのが「発見」されたのが 「The Lost Interview」だ。この貴重な資料は、DVDと書籍として現在販売されている。 ジョブズのエピソードに興味がある人は、「アメリカン・ドリーム」や 「レボリューション・イン・ザ・バレー」を読めば良い、ジョブズの思想に興味がある人は、まず「The Lost Interview」を 視聴し、そして活字で読むべきだ。

  • http://www.forbes.com/sites/briancaulfield/2011/11/11/robert-cringely-on-his-lost-interview-with-steve-jobs/

The Lost Interviewは、ジョブズの失意の時期に取材されている。そして、おそらくそのせいで、 ジョブズはいつもより饒舌に、ある意味開き直って語っている。書籍も動画も情報も、「どの時期」の取材に基づき作られたかは、 それ自体極めて重要な情報だ。ということで、講演用に「年表」を作成している。

10/03/2015

Stay Hungry, Stay Foolish

スタンフォード大学で行われた伝説のスピーチについて、スタンフォード大学が公開している草稿をポメラに保存し、少しずつ日本語に訳していたが、一通り終了した。

I am honored to be with you today at your commencement from one of the finest universities in the world. I never graduated from college. Truth be told, this is the closest I've ever gotten to a college graduation. Today I want to tell you three stories from my life. That's it. No big deal. Just three stories.

世界でもっとも素晴らしい大学のひとつの卒業式に参列することを 名誉に思います。私は大学を卒業していません。本当のことを言えば、 これが私の人生で大学の卒業式にもっとも近づいた体験となります。 今日、私は私の人生から 3 つの話をします。それだけです。特にたいした ことはありません。 3 つのお話だけです。

The first story is about connecting the dots.

最初の話は、点をつなぐということです。

I dropped out of Reed College after the first 6 months, but then stayed around as a drop-in for another 18 months or so before I really quit. So why did I drop out?

私は入学して六ヶ月でリード大学を落伍しました。しかし、 本当に大学を離れるまでの間、約18ヶ月、大学をうろついて いました。さて、なぜ私は落伍したか?

It started before I was born. My biological mother was a young, unwed college graduate student, and she decided to put me up for adoption. She felt very strongly that I should be adopted by college graduates, so everything was all set for me to be adopted at birth by a lawyer and his wife. Except that when I popped out they decided at the last minute that they really wanted a girl. So my parents, who were on a waiting list, got a call in the middle of the night asking: "We have an unexpected baby boy; do you want him?" They said: "Of course." My biological mother later found out that my mother had never graduated from college and that my father had never graduated from high school. She refused to sign the final adoption papers. She only relented a few months later when my parents promised that I would someday go to college.

それは私が生まれる前からつながっています。私の生みの母は、若い未婚の 大学卒業生でした。そして、彼女は私を養子に出すことを決意しました。彼 女は、とても強く、私が大学を卒業した人に養子に出されるべきだと感じて いました。それで、私が生まれたときには、弁護士とその妻の養子となるよう 準備が整っていました。ただ、ひとつ。彼らは最後の最後に、女の子が 欲しいと思ったことをのぞいては。それで、私の(現在の)両親はそのとき順番 待ちのリストに登録されていて、夜中に電話をもらい、「予定外の男の子が いるけれど、希望しますか?」と聞かれました。彼らは、「もちろん」と答 えました。

And 17 years later I did go to college. But I naively chose a college that was almost as expensive as Stanford, and all of my working-class parents' savings were being spent on my college tuition. After six months, I couldn't see the value in it. I had no idea what I wanted to do with my life and no idea how college was going to help me figure it out. And here I was spending all of the money my parents had saved their entire life. So I decided to drop out and trust that it would all work out OK. It was pretty scary at the time, but looking back it was one of the best decisions I ever made. The minute I dropped out I could stop taking the required classes that didn't interest me, and begin dropping in on the ones that looked interesting.

そして17年後、私はちゃんと大学に行きました。しかし、私は世間知らずにも スタンフォード大学と同じくらい学費の高い大学を選びました ( 苦笑 ) 。 そして、私の労働者階級の貯金が学費に費やされていきました。6ヶ月後、 私は大学に行くことに価値を見つけられませんでした。私は、人生でなにを したいかわからず、大学がそれについてどう助けになるかわかりませんでした。 そして、私は両親がその生涯に蓄えたすべての貯金を使い果たしていたのです。 それで、私は大学をやめて、大丈夫なんとかなると自分に言い聞かせました。 それは、そのときはとても恐ろしい体験でした、しかし、振り返ってみると 私がこれまで行った最上の決断でした。大学をやめた瞬間に、私は興味を感じない 授業を受けなくてよくなりました。そして、興味を持った授業に顔を出すことを 始めました

It wasn't all romantic. I didn't have a dorm room, so I slept on the floor in friends' rooms, I returned Coke bottles for the 5ツ「 deposits to buy food with, and I would walk the 7 miles across town every Sunday night to get one good meal a week at the Hare Krishna temple. I loved it. And much of what I stumbled into by following my curiosity and intuition turned out to be priceless later on. Let me give you one example:

ちっともロマンチックな状況ではありませんでした。私には寮の部屋がありませんでした。 だから、友達の部屋の床に寝ていました。私は、コカコーラの空き瓶を5セントで 引き取ってもらい、それを食費に充てていました。毎週、日曜日の夜には7マイル歩き、 ハレ・クリシュナ寺に行き、おいしい食事を食べていました。それは格別でした。 そして、後になって、私が好奇心と直感に引かれ出くわしたものの多くが、かけがえの ない価値を持つものでした。その例について話します。

Reed College at that time offered perhaps the best calligraphy instruction in the country. Throughout the campus every poster, every label on every drawer, was beautifully hand calligraphed. Because I had dropped out and didn't have to take the normal classes, I decided to take a calligraphy class to learn how to do this. I learned about serif and sans serif typefaces, about varying the amount of space between different letter combinations, about what makes great typography great. It was beautiful, historical, artistically subtle in a way that science can't capture, and I found it fascinating.

リード大学はそのころ、おそらくアメリカでもっとも優れたカリグラフィーの指導を 行っていました。学内では、あらゆるポスター、引き出しに貼られた見出しなど、 美しく手書きされていました。私は、落伍していて、通常の授業を受ける必要が なかったので、そうした美しい手書きのやり方を覚えるためにカリグラフィーの授業を 受けることにしました。私は、 serif と sans serif の書体について、文字の組み合わせに 応じて、文字の間の空白を調整することについて、また何が美しい書体を作るのかに ついて学びました。それは、美しく、歴史の流れを汲んでおり、科学の到達できない 領域で美的に洗練されていました。そして、私は強く惹かれました。

None of this had even a hope of any practical application in my life. But 10 years later, when we were designing the first Macintosh computer, it all came back to me. And we designed it all into the Mac. It was the first computer with beautiful typography. If I had never dropped in on that single course in college, the Mac would have never had multiple typefaces or proportionally spaced fonts. And since Windows just copied the Mac, it's likely that no personal computer would have them. If I had never dropped out, I would have never dropped in on this calligraphy class, and personal computers might not have the wonderful typography that they do. Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college. But it was very, very clear looking backward 10 years later.

それらのどれについても、私のそれからの人生において現実的な応用ができるとは 思えませんでした。しかし、それから十年が経過して、私たちがマッキントッシュを 設計していたとき、それらすべてが私のところに返ってきました。マッキントッシュは、 美しい書体に対応した最初のコンピュータでした。もし、私が決まったコースを落伍 しなければ、マッキントッシュは、複数の書体や文字間のスペースを調整する機能を 持たなかったでしょう。ウィンドウズは、マックをパクったので、パーソナルコンピュータは それらを持たなかったことでしょう。もし、私が落伍していなければ、私はカリグラ フィーのクラスに顔を出すことはなく、パーソナルコンピュータは、現在のような 素晴らしい書体を持たなかったことでしょう。もちろん、私が大学にいたころに、 点を未来につなげることはできませんでした。しかし、10年経過してから振り返ったとき、 点は非常にクリアにつながったのです。

Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backward. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something -- your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.

もう一度言います。点を未来につなげることはできません。過去を振り返ることによって のみ点をつなげることができるのです。だから、あなた方は点が未来にどうにかして つながるということを信じる必要があります。何かに信を置かなければなりません。 勇気、運命、人生、カルマ、その他なんであったとしても。この方法をとることに よって、私は一度も落ち込むことがありませんでした。そして、人生をまったく変えた のです。

My second story is about love and loss.

二つ目の話は、愛と喪失についてです。

I was lucky -- I found what I loved to do early in life. Woz and I started Apple in my parents' garage when I was 20. We worked hard, and in 10 years Apple had grown from just the two of us in a garage into a $2 billion company with over 4,000 employees. We had just released our finest creation -- the Macintosh -- a year earlier, and I had just turned 30. And then I got fired. How can you get fired from a company you started? Well, as Apple grew we hired someone who I thought was very talented to run the company with me, and for the first year or so things went well. But then our visions of the future began to diverge and eventually we had a falling out. When we did, our Board of Directors sided with him. So at 30 I was out. And very publicly out. What had been the focus of my entire adult life was gone, and it was devastating.

私は幸運でした。人生の早い段階で、熱中できることを見つけました。ウォズと私は、 私が20歳のときに、私の家の庭でアップルを始めました。私たちは一生懸命がんばって、 10年後アップルは庭の二人の会社から、従業員4000人、年商20億ドルの会社にまで 成長しました。創業10周年を迎える一年前、私たちは最上の創造物、マッキントッシュを 世に送り出しました。そして、私は30歳になり、会社をクビになりました。いったい、 どうしたら自分が始めた会社で首にされるのでしょう?(苦笑)アップルの経営の規模が 大きくなったので、私は一緒に会社を経営する才能があると思われる人を雇いました。 そして、それは最初の年とちょっとはうまくいきました。しかし、未来のビジョンに ついて、意見を異にするようになり、最後は決裂しました。そのとき、ボードメンバーや ディレクター達は彼のほうを支持しました。それで、30歳のとき、私は会社をでました。 それも非常に派手な形で。私の成人してからの人生全体の焦点が失われ、 それは破壊的でした。

I really didn't know what to do for a few months. I felt that I had let the previous generation of entrepreneurs down -- that I had dropped the baton as it was being passed to me. I met with David Packard and Bob Noyce and tried to apologize for screwing up so badly. I was a very public failure, and I even thought about running away from the valley. But something slowly began to dawn on me -- I still loved what I did. The turn of events at Apple had not changed that one bit. I had been rejected, but I was still in love. And so I decided to start over.

私は数ヶ月の間、本当にどうして良いかわかりませんでした。私は、私の前のアントレプラナー達を がっかりさせた、私に託されたバトンを落としてしまった、と思いました。私は、 デイビッド・パッカードとボブ・ノイスに会って、こんなにひどく台無しにしたことを 謝ろうとしました。私の失敗は広く知られており、私はシリコンバレーから逃げ出す ことすら考えました。しかし、何かがゆっくりと私に広がってきました。私は、まだ私が やっていたことに愛を感じていました。アップルで起こった出来事は、ただの1ビットもそれを 変えていませんでした。私は追い出されました、しかし、私の愛は続いていました。 そして、私はまた始めようと決意しました。

I didn't see it then, but it turned out that getting fired from Apple was the best thing that could have ever happened to me. The heaviness of being successful was replaced by the lightness of being a beginner again, less sure about everything. It freed me to enter one of the most creative periods of my life.

そのときはわかりませんでした。しかし、アップルを解雇されたことは、私について起こりえた最上 の出来事でした。成功したことに伴う重圧は、再び何もわからない初心者の気軽さにとって変わりまし た。そのことは、人生で再びもっとも創造的な時期に入るために私を解放してくれました。

During the next five years, I started a company named NeXT, another company named Pixar, and fell in love with an amazing woman who would become my wife. Pixar went on to create the world's first computer animated feature film, Toy Story, and is now the most successful animation studio in the world. In a remarkable turn of events, Apple bought NeXT, I returned to Apple, and the technology we developed at NeXT is at the heart of Apple's current renaissance. And Laurene and I have a wonderful family together.

それからの5年間、私は NeXT 、そして Pixar と呼ばれる会社を立ち上げました。 そして、現在私の妻である驚嘆すべき女性と出会い、恋に落ちました。ピクサーは、世界で最初のコンピュータによる アニメーション、「トイ・ストーリー」を創ろうとしており、今や世界でもっとも成功した アニメーションスタジオです。驚くべき巡り合わせの結果、アップルは NeXT を買収し、 私はアップルに戻りました。そして、私たちが NeXT 社で開発した技術は、アップルの現在の革命の 原動力になっています。そして、ローリーンと私は、素晴らしい家庭を持つことができました。

I'm pretty sure none of this would have happened if I hadn't been fired from Apple. It was awful tasting medicine, but I guess the patient needed it. Sometimes life hits you in the head with a brick. Don't lose faith. I'm convinced that the only thing that kept me going was that I loved what I did. You've got to find what you love. And that is as true for your work as it is for your lovers. Your work is going to fill a large part of your life, and the only way to be truly satisfied is to do what you believe is great work. And the only way to do great work is to love what you do. If you haven't found it yet, keep looking. Don't settle. As with all matters of the heart, you'll know when you find it. And, like any great relationship, it just gets better and better as the years roll on. So keep looking until you find it. Don't settle.

これらのことすべてについて、私がアップルをクビにならなければ起こらなかったのは明白です。 疑う余地はありません。それはひどい味の薬でした、しかし、思うに患者(である自分)は それを必要としていたのです。人生には、ときどき、煉瓦で頭を殴られるような出来事が起こります。 私は、自分がこれまで続けることを可能にした唯一の力は、私が自分のしていたことを愛していた からだと納得しています。そして、そのことはあなたたちの恋人に対してそうであるように、 仕事に対しても成り立ちます。そして、偉大な仕事を成し遂げる唯一の方法は、自分がやっている ことを愛することなのです。もし、あなたがまだそれを見つけていないなら、探し続けることです。 ぼけっとしていてはいけません。あなたの心で起こるすべてと同様に、あなたは それを発見すると自分で気がつきます。そして、あらゆる最上の関係がそうであるように、 年月を重ねることにより深まっていきます。だから、探し続けてください。ぼんやりしないで。

My third story is about death.

私の三番目の話は、死についてです。

When I was 17, I read a quote that went something like: "If you live each day as if it was your last, someday you'll most certainly be right." It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something.

私が17歳のとき、「もし毎日を「今日が人生最後の日だ」という気持ちで生きていれば、 いつかそれが本当になる日がくる」、そのような引用を読んだことがあります。それは私の印象に残り、 それからの33年間、私は毎朝鏡を見て自問してきました、「もし今日が人生最後の一日だとしたら、 今日予定していることをしたいだろうか?」、と。そして、その答えが「いや、違う」が何日も続くとき、 私は何かを変えなければいけないのだと気づきました。

Remembering that I'll be dead soon is the most important tool I've ever encountered to help me make the big choices in life. Because almost everything -- all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure -- these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.

自分がじきにこの世を去ることを思い出すことは、人生において大きな変更を行う際の、私が知る 限りもっとも重要なツールです。なぜなら、ほとんどすべての事柄、あらゆる周囲の期待、 あらゆる誇り、あらゆる困惑や失敗へのおそれ、そうしたものは、真に大切なものを残し、死の前に 崩れ去るからです。自分たちがやがて死ぬということを思い出すことは、私が知る限り 「何か失うものがあるかもしれないと思いこむ」罠からあなた方を救う最上の方法です。あなた方は、 すでに丸裸です。心の思うままに従わない理由など、どこにもありません。

About a year ago I was diagnosed with cancer. I had a scan at 7:30 in the morning, and it clearly showed a tumor on my pancreas. I didn't even know what a pancreas was. The doctors told me this was almost certainly a type of cancer that is incurable, and that I should expect to live no longer than three to six months. My doctor advised me to go home and get my affairs in order, which is doctor's code for prepare to die. It means to try to tell your kids everything you thought you'd have the next 10 years to tell them in just a few months. It means to make sure everything is buttoned up so that it will be as easy as possible for your family. It means to say your goodbyes.

一年くらい前、私はガンだと告げられました。朝、7時30分に撮影を行ったところ、膵臓に はっきり腫瘍が写っていました。私は膵臓が何かも知らなかったのに。主治医たちは、私に これはほぼ治療できないガンと思われ、余命は3ヶ月あるいは6ヶ月に及ばないと言いました。 主治医は、家に行って、用事を片づけておくようにと言いました。それは、 「死に備えなさい」というお医者さんの暗号で、これから10年生きていたとしたら子供たちに 伝えておこうと思うすべてのことを、たった数ヶ月で実行せよという意味です。家族が楽になる ように、できることをしておけということです。別れを告げなさい、ということです。

I lived with that diagnosis all day. Later that evening I had a biopsy, where they stuck an endoscope down my throat, through my stomach and into my intestines, put a needle into my pancreas and got a few cells from the tumor. I was sedated, but my wife, who was there, told me that when they viewed the cells under a microscope the doctors started crying because it turned out to be a very rare form of pancreatic cancer that is curable with surgery. I had the surgery and I'm fine now.

私は終日その診断のことを考えていました。その夜、遅く、喉から胃、腸までへと内視鏡を通し、 針のようなものでガンの細胞を採取しました。私は麻酔でもうろうとしていましたが、妻がいて、 「お医者さんが顕微鏡で採取した細胞を見始めたら、きわめてまれな外科手術で治療できるもの だと鳴き始めた」と教えてくれました。私は手術を受け、そして今大丈夫です。

This was the closest I've been to facing death, and I hope it's the closest I get for a few more decades. Having lived through it, I can now say this to you with a bit more certainty than when death was a useful but purely intellectual concept:

これは私にとってもっとも死に近い経験でした。そして、私はあと数十年、それ以上の ことがないことを望んでいます。その経験を通じて、私は死が純粋に知的な概念であった頃より 少しは明確に、このことをあなた方に言えるのです。

No one wants to die. Even people who want to go to heaven don't want to die to get there. And yet death is the destination we all share. No one has ever escaped it. And that is as it should be, because Death is very likely the single best invention of Life. It is Life's change agent. It clears out the old to make way for the new. Right now the new is you, but someday not too long from now, you will gradually become the old and be cleared away. Sorry to be so dramatic, but it is quite true.

誰も死にたくありません。天国にいきたいと願う人ですら、死にたくないでしょう。 でも、死は我々すべてに共通する行き先です。誰もそこから逃げられません。そして、また そうであるべきなのです。なぜなら、死こそが人生における唯一最上の発明と 思われるからです。死は、人生を変える手段です。それは、新しい人々のために老人を 整理します。今は、あなた方がその若者です。しかし、それほど先でなく、あなた方は 徐々に年をとり、そしていなくなります。芝居じみてすみません、しかしこれは まったく本当のことなのです。

Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma -- which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.

あなたの時間には限りがあります。だから、それを他の誰かのために無駄にしてはいけません。ドグマ、 他の人考えた結果、にとらわれてはいけません。他の人の考えの雑音で、あなたの内なる声を おぼれさせてはいけません。そして、もっとも重要なこと、それはあなたの心と直感にしたがう 勇気を持つことです。あなたの心と直感、それらはどうかして、あなたが真になりたいことを 知っています。それら以外は重要ではありません。

When I was young, there was an amazing publication called The Whole Earth Catalog, which was one of the bibles of my generation. It was created by a fellow named Stewart Brand not far from here in Menlo Park, and he brought it to life with his poetic touch. This was in the late 1960s, before personal computers and desktop publishing, so it was all made with typewriters, scissors and Polaroid cameras. It was sort of like Google in paperback form, 35 years before Google came along: It was idealistic, and overflowing with neat tools and great notions.

私が若かったころ、「ホールアースカタログ」と呼ばれる驚嘆すべき雑誌があり、それは私たちの 世代のバイブルのひとつでした。それは、ここからあまり離れていないメンロ・パークに住んでいた、 スチュワート・ブランドと呼ばれる若者に創られたもので、彼の詩的なセンスを吹き込まれて いました。まだパーソナルコンピュータやデスクトップパブリッシングのなかった1960年代 後半のことなので、すべてがタイプライター、はさみ、そしてポラロイドカメラで造られていました。 言ってみれば、 Google をペーパーバックにしたようなもので、Google が登場する35年前でした。 観念主義的であり、気の利いたツールと素晴らしい言い回しが満ち溢れていました。

Stewart and his team put out several issues of The Whole Earth Catalog, and then when it had run its course, they put out a final issue. It was the mid-1970s, and I was your age. On the back cover of their final issue was a photograph of an early morning country road, the kind you might find yourself hitchhiking on if you were so adventurous. Beneath it were the words: "Stay Hungry. Stay Foolish." It was their farewell message as they signed off. Stay Hungry. Stay Foolish. And I have always wished that for myself. And now, as you graduate to begin anew, I wish that for you.

スチュワートと彼のチームは何冊かのホールアースカタログを発刊し、そしてその旅を終えたとき、 最終号を発刊しました。1970年代の中頃で、私があなた方くらいの年代のころです。 最終号の裏表紙には、朝のカントリーロードの写真があり、見ると自分がヒッチハイクしている ような冒険心を掻き立てられました。下の方に言葉が書かれていました。「空腹であれ、 愚か者であれ」。それは、彼らが去ることの別れのメッセージでした。空腹であれ、 愚か者であれ、私はいつもそう願って生きてきました。そして今、あなた方が巣立つときなので、 私はあなた方にそれを願います。

Stay Hungry. Stay Foolish.

空腹であれ、愚か者であれ

Thank you all very much.

ありがとうございました。


ここまで読んだしつこい?方のために、上記を対訳の形でpdfにしたものをプレゼント

「ブルーマジック」を読んだ

「ブルーマジック」を読んだ。この本の原題は、"The People, Power and Politics Behind the IBM Personal Computer"、で日本語副題は「IBMニューマシン開発チームの奇跡」となっている。 IBM PCを創りだしたプロジェクト"Chess"について取材を元に書かれた本で、関係者でなければわからないことが書かれているが、中盤くらいから構成が乱れており、残念な内容となっている。

ジョブズの大学選び

「アメリカン・ドリーム」に、ジョブズの大学選びのエピソードが書かれている。

まず、年上の友人達の通う大学を念入りに見てまわり、自分に合うかどうかを確かめた。 巨大な階段教室のいくつもあるバークレーは、学位製造工場みたいに思えたし、スタンフォードはあまりにもまじめすぎた。 結局、友人の一人が在学しているオレゴン州ポートランドのリード・カレッジを見学してみて、こぢんまりした、自由な校風だが、授業料の高いこの大学で、 学生生活を送ってみようと決めた。息子の決心を聞いた父親のポールは、莫大な授業料にびっくり仰天した。 母親によれば、「スチーブは、『行きたい大学はそこだけだ。そこへ行けないのなら、他のどの大学にも行かない』といった」という。両親はこの 精神的な脅迫に負けた。

「学費が高い」とは、いったいどのくらいだったのだろう?と思い、調べてみた。 当時の学費はわからないが、現在は、年間約5万ドルのようだ。確かに高い。

リード大学の学費について、「スティーブ・ジョブズの再臨」に、気になることが書いてある。

実はスティーブは、自分流にカレッジへの入学ですらタダでやってのけている。彼の両親は、学費の高い私学に彼を通わせる余裕がなかったのだが、 にも関わらず彼は先んじて入学手続きを済ませてしまった。それは、不可能と思われることを達成するための、一途で挑戦的な恐れを知らぬ 彼なりのやり方だった。

そのリードカレッジでスティーブの一番の友達になったダン・コトケは、高等教育におけるスティーブの冒険は、 何かのイタズラのようでもあり、徒労でもあったと語る。というのも、2人が1年生として10月を迎えたとき、 つまりキャンパスで過ごし始めてひと月しか経たないうちに、スティーブは退学していたからだ。 より正確には、彼は実際には入学すらしていなかったと言うべきか。なぜなら、スティーブはコースに登録して 寮に引っ越しては来たものの、学費も寮費も委員会の費用もすべて払っていなかったからである。 その数千ドルにのぼる請求額は、期限を30日過ぎても納付されずにいた。 スティーブの両親が支払わなかったからだが、スティーブには他に財源がない。したがって、 カレッジ側は彼を正式な学生として認めることはなかったのだった。

ところが、スティーブはその時までに学生部長のジャック・ダドマンと気安い関係になっていた。 そして、ジャックを説得して、授業を受講する許可と寮に住む権利をタダで手に入れてしまった。

DVD「スティーブ・ジョブズの真実」に、リード大学の光景が含まれている。

「アメリカン・ドリーム」を読んだ

マイケル・モーリッツの「アメリカン・ドリーム」を読んだ。1984年に書かれたこの本は、多くの「ジョブズ本」のネタ帳のような存在で、Macintoshプロジェクトやジョブズのきわめて内部的なエピソードが満載されている。

ジョブズは静かに、ゆっくりと話しはじめた。 「この事業部は、アップルを背負って立つ中枢部門だ。ここに最高の人材を集めて、ほとんどだれもがまだやったことのないことを、やりとげなければならない。わが事業部は、まだ製品といえるものを出荷していないが、それを成し遂げるのだ」

そう前置きしてから、すばやい足どりでパネル台に近づくと、その上のクリーム色の大きな紙に、子供のような時で書かれたいくつかの標語を指しながら、お説教を始めた。 「出荷されるまでは、仕事は終わっていない」と標語の一つを読み上げてから、「解決しなければならないこまかい問題は無数にある。六カ月前には、わが事業部にそれができる、とはだれも信じていなかった。今では、だれもがわが事業部の成功を信じている。会社はリサを何台か売るだろうが、アップルの未来はマックにかかっている」とつづけていった。

さらに紙を一枚めくって、次のスローガンを指さし、「妥協するな」と読んだ。話は、こんどのコンピュータの発表予定日に移り、「急いでできそこないを発表するよりは、期日を遅らせるほうがまだましだ」といって、ちょっと言葉を切ってから、「しかし、予定を遅らせるつもりはない」と断言した」。

もう一枚、紙をめくり、「苦労というものは、した甲斐がある」と読み上げ、先を予言するような口調で「五年もしてから現在のことをふりかえると、きっとだれもが「あのころはほんとうによかった」というにちがいない。みんなわかっていると思うが・・・」とここで声を半オクターブほど上げて、ゆっくりした口調でこう述べた。「この部門こそ、アップルのなかでもっともすばらしい仕事場なのだ。ここは三年前のアップルそっくりだ。このまま純粋性を保ち、適切な人材を雇っていくなら、これからもずっとすばらしい職場であり続けるだろう」

以上の引用は14ページから15ページまでから、引いた。ジョブズ本を読んだことがあれば、おなじみの内容ばかりだろう。この本がリソースとなっている。

なぜ、モーリスはこんな内部の打ち合わせの内容を書けたか不思議になるが、その答えは「レボリューション・イン・ザ・バレー」、p132"The Little Kingdom"にある。

Maintoshの開発は、Apple社内でも秘密の囲いに覆われていたので、数ヶ月後のある日、Steveが「TIME」誌のレポーターのMike Moritzを伴ってBandley 4のソフトウェアエリアに現れた時にはみんな驚いた。Steveは僕に、彼にMacintoshのデモをして、すべての質問に答えるように言いつけた。MikeはAppleについての本を書きたいと思っていて、Macintoshチームを含めた会社全体にアクセスできるよう、Steveを説得したようだ。

「Mikeは俺たちの歴史かになる」とSteveは言った。「だから、みんな、彼には何でも教えてやってくれ。彼をチームのメンバー同様に扱うように。彼は俺たちの話を書いてくれるんだから」。

その後、モーリッツは「TIME」誌の記事について、ジョブズの逆鱗に触れてしまい、プロジェクトに「モーリッツと話をしたら、その場でクビにしてやるからな!」ということになるが、アンディは、

しかし、Mikeが彼の本の仕上げにかかると、何人かはまだこっそりMikeと話をした。ちょうどMacの市場導入の頃だった。本は「The Little Kingdom: The Private Story of Apple Computer」というタイトルで、1984の秋に発売された。20年経っても、これまでApple社について書かれた最も素晴らしい本の一つであり続けている。
と評している。「スティーブ・ジョブズの王国」もまたモーリッツの著作だが、モーリッツの書いた本は奇妙なゆがみを感じさせる。

10/01/2015

「アップル薄氷の500日」を読んだ

「アップル薄氷の500日」を読んだ。この本は、ギル・アメリオがアップルのCEOを勤めていた500日の出来事を書いたもので、アメリオがCEOに就任した経緯から始まり、最後は取締役会から退任を告げられたところで終わる。 この本には、アップルの身売り交渉の詳細について書かれていて、当時のアップルの苦境がよくわかる。「復活」後のアップルしか知らない若い世代にはとても信じられないだろうけれど、アップルは資金がショートし、本当に倒産寸前だったのだ。他にもわかることがある。アメリオは、あまりに普通の人、というか普通の経営者だ。彼は、自らジョブズを招きいれることを受け入れ、そして結果的にはそれにより自分がCEOの席を奪われ、無能なCEOとして歴史に名を残してしまった。これはスカリーにもあてはまる。アメリオは自分でも書いているが、アップルに関わらなければ(あるいはジョブズを招き入れなければ)、ナショナルセミコンダクト社を復活させた輝かしいキャリアに傷をつけることはなかっただろう。それにしても、書籍の中で、CEO就任時や去るときの条件について詳しく書いているのは痛い。

上の動画は、Macworld 1997で、アメリオが「復活」したジョブズを紹介する場面から始まる。アメリオの普通さ「普通の人でない」ジョブズの違いが、歴然と現れている。紹介して現れたジョブズは、最初当惑している。こんなジョブズは珍しい。しかし、話を始めると人が変わる。本当に何かがおりてきているかのようだ。気の毒なアメリオは舞台に取り残されてそれを見ている

「アップル薄氷の500日」の中でアメリオはとても興味深いことを書いている。

自分にこんな高額報酬の価値があると、私は信じていたのか?いまも信じているのか?その点を説明しておこう。

企業のCEOが受け取る金銭報酬は、有名スポーツ選手や全国ネットワークTV局の司会者が受け取る報酬に似ている。そのポストにふさわしい数少ない候補者のなかから誰かを登用しなければいけないから、いくら出せば本人がやる気になるかが基準だ。マーケティング担当の責任者や営業担当の責任者がもらう報酬と比較して、いや、イギリスやフランスやドイツのCEOがもらう報酬と比較してさえ、ルー・ガイスナー(IBM会長)、マイケル・アイスナー(ウォルト・ディズニー会長)、スティーブ・ロス(タイム・ワーナー元会長)のような人物がもらっている報酬は、あまりにも高額だ。これほどの額に値するCEOなど、本当はどこにもいないと思う。マイケル・ジョーダン(プロ・バスケットボール選手)やダン・ラザー(TVキャスター)の報酬額にも同じことがいえるだろう。しかし、競争がきわめて激しい市場分野では、企業も、スポーツ・チームもテレビ局も、有能な人材を引き寄せるためなら法外な金を惜しまない。競争が、途方もない金額を生み出す。それが現実だ。自由経済を支える、需要と供給のバランスなのだ。同じぐらい懸命に働いているほかの人たちに不公平ではないか?そう不公平だ。では、こういう状態は、近い将来、変わるだろうか?いいや、変わらない。

9/30/2015

「佐藤可士和の超整理術」を読んだ

「佐藤可士和の超整理術」を読んだ。「すべては整理から始まる」として、「空間」、「情報」、「思考」の整理について、佐藤さんが実践されている内容が紹介されている。

佐藤さんは、デザイナーだが、鞄を持たない、いわゆる「手ぶら」で外出し、打ち合わせるというエピソードが興味深かった。 最初は鞄を持ち歩かれていたが、「本当に必要なのか」ということを追求した結果、小物をポケットに入れるだけで十分と判明したという。 佐藤さんが勧めるメソッドがある。それは「毎日鞄に入っているものを出してみて、見直す」ことだ。 そうすれば不要なものがあればわかり、本当に必要なものが選別される。

9/29/2015

ジョブズのこだわり (3)

WozがApple IIのROMを作っていたとき、ジョブズはプラスチックケースや電源の手配をしていた。 ジョブズは、一貫してPCにノイズを発生させる電源ファンをつけるのを嫌がったが、ウォズは電源のことをあまり気にしていないため、 ジョブズはアタリ社に生き、「ファンを使わなくてすむような電源装置を設計してくれる人間を推薦してくれ」と頼む。 そうして紹介されたのが、フレデリック・ロドニー・ホールトだ。

ホールトは、「熱をもたずに、信頼度の高い軽量の電源装置をつくるには、他のマイクロコンピュータ・ メーカがどこもまだ使っていない方法にたよる以外ない」と考え、以前にオシロスコープ用に設計したことのある スイッチング電源装置を採用した。これが、Apple IIに使われ、のちのPCの標準となる。

ホールトの電源装置がうまくいき、コンピュータの大きさがはっきりしてきたので、ジョブズは アタリ社の元同僚で、Apple Iのプリント基板の版下を作ってもらったハワード・キャンティにApple II用の基板を依頼する。 ジョブズのオーダーは、Apple Iのときより強化されていて、「今回はチップとチップとをつなぐ線をきっちりした直線にしてほしい」と求める。 それに対してキャンティは、「私はすっかり腹を立てて、完全さを求めすぎると非生産的になることをわからせよう」としたが、 あまりに頭にきたので「今後二度とあんたの仕事はしない」と告げる。 それでも結局、キャンティは、ジョブズが満足する基板のパターンを作成し、それがApple IIに採用された。

Apple IIIの失敗

Iの後がIIだったら、その次がIIIなのは当たり前だ。なのにApple IIIについては、ほとんど情報がなかった。 昔、雑誌の記事で写真だけ見ていた自分は、どうしてApple IIIの情報が少なく、失敗したのか不思議に思っていた。

モーリッツの「アメリカン・ドリーム」にApple IIIの失敗について詳しい記載がある。 アップルIIは、電源とケースを除くとほとんどウォズが一人で創り上げたものだ。しかし、 Apple IIIは、株式を公開して億万長者があふれたアップル社による、最初の開発製品となり、 それが不幸の始まりだった。経験がないまま、性急なスケジュールがたてられ、設計は「集団合議制」で行われた。 「アメリカン・ドリーム」では、もっともひどいとばっちりを受けたのは出版部だったと書いている。

テクニカル・ライターたちは、技術研究所サイドからの設計変更とマーケティング部からの厳しい出荷要求との間で、苦しい板ばさみになっただ。 ライターたちは、アップルIII発表のやっと九週間前になって実物を見せられたので、締切までに余裕がほとんどなく、書き上げた取扱いマニュアルと 完成したコンピュータとをつき合わせる作業はほとんど無視されてしまった。

開発自体については、できるだけ社内で開発しようとしたが、技術情報が外部にもれるのをおそれるあまり、「独立したソフトウェア会社が アップルIII用のプログラムを開発するのはほとんど不可能」という滑稽な状況になっていた。「系列会社のビジコープ社にさえも、 ビジカルクのデモ用プログラム作成を依頼する書類をつけて、アップルIIIの試作機が届けられたのは、発表のたった二週間前だった」という。

それでもなんとか製品ができて、発表会が開催されたが、その内容がすごい。

アップル社は、ディズニーランドをひと晩借りきり、二万枚の無料入場券を配り、赤い二階建てバスを何台も借り上げて、相愛客を選んだ。

結果は悲惨なものだった。

設計に問題があって、コンピュータが本体に収まらなくなってしまった。このため、主プリント回路基板の上に、不格好な基板をもう一枚載せねばならない 羽目になった。(中略)プリント回路基板の配線と配線の間が狭すぎて、ショートした。(中略)チップがソケットがはずれたり、キーボードの配線が短すぎたりした。

最終的にはちゃんとした製品になったものの信用は損なわれてしまい、発売してから三年後、65000台しか売れなかったという。 とてもジョブズがいた会社で起こったこととは思えないが、ジョブズはこの時の教訓から多くを学んだのだろう。

Macintoshを創った7人

マッキントッシュの開発メンバーは、約20名程度だったと言われているが、「Macintosh Museum」のアンディ・ハーツフェルドの取材記事に「初代Macintosh開発チームの主要メンバー」として7名の写真が掲載されている。

上の写真は、Folkoreに掲載されている画像で、「Macintosh Museum」の写真と順番は違うが、同じ7名のようだ。「レボリューション・イン・ザ・バレー」の表紙は、6名で一名足りないが、それはおそらく、Bruce Hornだと思う。

  • Bill Atkinson(QuickDrawを開発)
  • Andy Hertzfeld(いろいろ)
  • Bruce Horn(Finderを開発)
  • George Crow(電源を担当)
  • Joanna Hoffman(マーケティンブプランを担当、「リソース」の概念を考案)
  • Burrell Smith(Macのすべての基盤となるデジタル回路を設計)
  • Jerry Manock(ケースのデザイン)

この記事では、Jerry Manockについて、アップルの最初のデザイナーとして紹介している。

9/28/2015

ジョブズが追い出した人々

「図解 スティーブ・ジョブズ全仕事」は、ジョブズの仕事について図をつけて紹介しているが、「忘れられたアップルたち」として、アップル(あるいはジョブズ)と離れた人物をコラム形式でとりあげている。

  1. 追われた「マッキントッシュの本当の父」 ジェフ・ラスキン
  2. 燃え尽きた「アップルたたき上げの技術者」 バレル・スミス
  3. 5億ドルをフイにした「かつての同士」 ロン・ウェイン
  4. 詰め腹を切らされた「ジョブズの天敵」 マイク・スコット
  5. ジョブズの逆鱗にふれてしまった秀才 アルビ-・レイ・スミス
  6. 徐々に遠ざかっていった共同創業者 スティーブ・ウォズにアック
  7. 退社させられた「ジョブズの親愛なる先輩」 マーク・マークラ

資料を読むとわかるが、ジョブズは多くの人々を「追い出し」ている。 上に名前がない人物で追加したいのは、まずギル・アメリオだ。いずれ経緯を添えて紹介したい。

9/26/2015

富田倫生さんの「パソコン創世記」を読んだ

「パソコン創世記」(1994)を読んだ。この本はすごい本だ。何がすごいと言って、二段組みであとがきまで453ページとボリュームがすごい。それを富田倫生氏が一人で書き下ろしている。 内容がまたすごい、膨大な文献や情報を引用しており、引用するだけでなく細かくノートをつけている。さらに 同じエピソードについて文献により矛盾がある場合、それを指摘している。たとえば、アスキーを興した西和彦が電話をかけて、ビル・ゲイツに会いに行き、 議論が白熱した件について、議論の長さが「8時間」と書かれているものがあるが、西氏に確認したところ3時間だったようだ、のように書いている。 富田氏は、文献をあたるだけでなく、実際に取材もされたらしい。

あとがきから富田氏の言葉を引用する。

「何の権利があって」となじる深夜の視線に貫かれながら、それでもお尋ねし続けたのは、私自身が何らかの狂気の虜となっていたからだ。ぶしつけな質問に耐え、心を揺らしながらそれでも私の狂気と付き合ってくださった方々に、ただただ頭を深く垂れてお礼とお詫びを申し上げます。
自分は富田氏にははるか遠く及ばないが、Amazonやネットオフなどで古書を探し、複数の図書館から本を借り続け、常時10冊近い本を手元に置いている。自分の自由になる時間の大半を情報収集と読書や調査に充てている。外出していて書店があると、文献を探す。当初は講演の参考資料集めだったものが、今は手段自体が目的化しており、「中毒のようだ」と思う。富田氏が「パソコン創世記」を書かれるに至った気持ちがわかる気がする。最近、同じようにパソコン創世記について、書かれた本を見つけた。脇英世氏の著作で、「スティーブ・ジョブズ」「ビル・ゲイツ」、その他にも関連するものがある。手にとりページをめくると、富田氏のように当時のことを執拗に(としか言いようがない)整理している。脇氏もまた、同じ病に取り憑かれているのかもしれない。

富田氏は、2013年に他界されているが、その作品のいくつかは青空文庫で読むことができる。一度会ってお話がしたかったと思うが、もうそれは叶わない。

  • http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person55.html

富田氏は、青空文庫の立ち上げと運営に尽力されていた。残されたブログの記事を読むと、TBSブリタニカから出版された「パソコン創世記」をめぐっては、いろいろ残念なことがあったようだ。だから富田さんとしては、「是非青空文庫で読んでください」と思われているかもしれない。

「パソコン創世記」の内容について、簡単に紹介しておくと、日本電気を中心に当時日本で起こった出来事が、きわめて詳細に、膨大なリファレンスとともに記載されている。PC-100について詳しく書かれたものは、メディアを問わず他では見たことがなかったし、日本電気が独自開発したBASICを持ちながら、マイクロソフトBASICのライセンスを受けるに至った経緯が書かれている。PCの黎明期について、海外の書籍を読んでもほとんどまったく日本のことは出てこない。唯一、「ケイ」と呼ばれマイクロソフトの副社長を勤めていた西和彦氏のエピソードがでてくるくらいだ。国内でもパーソナルコンピュータの可能性に気がつき、素晴らしい物作りをしていた技術者がいたことが、「パソコン創世記」を読むとわかる。しかし、それらは会社の壁から外には出てこなかった。TRONの坂村氏は、「海外では勝ち馬を作ろうとする。しかし、日本は勝ち馬に乗ろうとする」と文化の違いについて触れている。日本は、スタンダードを作ることができたが、できなかった。その歴史に学ばなければならない。

このブログに書いている記事は、以前は投稿ごとに参照している文献のリンクを置いていたが、どんどん調査の範囲が広がるので、面倒になり、今は省略している。その代わりに「参考情報」として、Aamazonへのリンクをまとめており、記事を読んで興味を持った人があれば、概要を確認したり、購入しやすいようにしている。参考情報は、いずれ作成年次順など分類しようと思っている。

9/25/2015

Bill Atkinsonが2004年に来日していたとは!

「Macintosh Museum」を読んで、Bill Atkinsonが、2004年に来日して講演していたことを知った。なんてこった!

  • http://japan.cnet.com/interview/20067363/
  • http://www011.upp.so-net.ne.jp/PARK/hclinks/Bill_lecture.html
  • http://www.hirax.net/keywords/log/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3/latest

9/24/2015

ジョブズは世界をどう変えたか

答えは、人によって変わるだろう。「ジョブズとアップル奇蹟の軌跡」の章立てが、ジョブズの功績と重なって興味深い。

  • パーソナルコンピュータを誕生させたApple II
  • 直感的でわかりやすいGUIを標準にしたMacintosh
  • WWWとフルCG3Dアニメを世に送り出したNeXT and pixar
  • デザインがいかに重要かを証明したiMac
  • UNIX+GUIの強力な組み合わせを実現したMac OS X
  • スマートフォンの標準を確立したiPhone
  • 誰もが使える魔法のタブレットを実現したiPad
  • クリエータが個人で活躍できる時代を切り開いたApp Store

リアルモバイルになり損ねたポメラDM100の残念さ

「どこでもテキストを編集できたら良いな」と思って、調べていたら、KING JIMUが販売しているポメラが急に欲しくなり買ってみた。

ポメラは、単三乾電池二本で稼働し、データ保持用にボタン型電池を使用する。これは、HP-200LXと同じ構成で、モバイル用途を追求するとこの形になる。 やや小ぶりながら、キーボードが付いており、使わないときは閉じておける点もHP-200LXと同様だ。

現代のデバイスらしく、液晶は「5.7インチ TFTモノクロLCD、SVGA(800×600ドット)、バックライト搭載」で、 128MBのフラッシュメモリを搭載している。その他にATOKと電子辞書も「自分でインストールしなくても」利用できる。 キーボードは、マニアックにも「親指シフト」に切り替えても使えるらしい(親指シフトモデルがあるわけではなく、 設定で切り替えて、キートップにはシールを貼って使用する)。128MBをテキストで埋め尽くすのは大変だが、 SDメモリスロットもあるので、死ぬまで書き続けても問題ない。書いたものは、母艦に取り込みたくなるわけだが、 それについては、USBケーブルの他、ブルートゥースに対応しているし、テキストをQRコードで表示して、 スマートフォンの専用アプリで(画像として)読み込むこともできる。 液晶はバックライト対応なので、自分で工作しなくても夜でも使える。

ここまでは、まさに「言うこと無し」だが、実際に使ってみて2つの致命的な問題を発見した。

  1. 「ファイラー」がない
  2. スクロールバーやそれに相当するものがない
  3. オートパワーオフの際に「電源をオフしています」という残念なメッセージが表示される
  4. ATOKの設定画面が(ほとんど)ない
  5. 内蔵されているGENIUSがサブセットすぎる
  6. カーソルをブロックにできない
  7. PgDown/PgUpキーがない
「ファイル」の概念はあるので、メニューから「ファイル」を呼び出して、開いたり、保存したりできるけれども、 全体の行数表示がなく、HP-200LXやDOS窓的なファイル一覧機能もない。スクロールバーや「画面に表示されているのは全体の何パーセント」的な表示機能がない。 書いたものを確認するには、カーソルキーで先頭に行き、それから末尾(スクロールしなくなるまで)に移動する、あるいはAlt+上下キーでページを上下するしかしない。おかしい。 長い文章を書いていると、気持ちが悪い。これはつらい、というか致命的だ。一体何を考えているか‥。

ハードウェアのスペック的にはまさにリアルモバイルであり、モバイルの理想を具現化したような端末だ。 しかし、ソフトウェアが残念過ぎる。この端末を設計した人に、HP-200LXを見せてあげたいと思った。

9/22/2015

BASICとは?

BASIC(ベーシック)は手続き型プログラミング言語のひとつ。 名前は「beginner's all-purpose symbolic instruction code」(「初心者向け汎用記号命令コード」を意味する)の頭字語である。

引用元: Wikipedia

  • http://inexorabletash.github.io/jsbasic/
  • http://www.quitebasic.com/prj/puzzle/towers-of-hanoi/

9/16/2015

昔、日本には「国民機」があった

脇英世さんの「ビル・ゲイツの野望」がとても面白かったので、脇さんが書かれた本を調べて、新たに「パソコン世界の嵐」と「IBM 20世紀最後の戦略」を購入した。 「ビル・ゲイツの野望」にゲイツについて、他の書籍にはないことが多く書かれていて不思議に思っていたが、「パソコン世界の嵐」を読んで納得した。 脇さんは日本電気(にっぽんでんき)の高山取締役(当時)と一緒にゲイツと会ったり、パソコン黎明期の日本で日本電気はじめ各社の相談をされていたようだ。 「IBM 20世紀最後の戦略」にも、1990年に古川氏から頼まれ、ゲイツにインタビューを行ったときの様子が書かれている。

「パソコン世界の嵐」の刊行は1993年となっている。これは、まさに「パソコン世界の嵐」のまっただ中、これからどうなるかわからない、 言ってみれば途中の時期に書かれている。はっきり言うと古い内容になっているが、当時の世界がどう見えていたかという観点でとても興味深かった。

冒頭書いた、ゲイツとの面会は、高山取締役に「絶対何も発言しないように」という条件で、同行したもので、それは実は「OS/2を見捨てないで欲しい」という お願いで、その約束の証人としてだったということが後でわかる。 当時、日本はどんな状況だったかというと、「日本電気のPC9801がほぼ完全に国内のパソコン市場を掌握」していた。 PC9801は、「国民機」と呼ばれ、企業、大学、ほとんどあらゆるところで使われており、「毎月10万台が売られており」当時は誰もそれが続くと思っていた。 しかし、盤石と思われたその支配は、「日本で使われるPCには日本語版OSが必要」という前提が崩れ、今や日本電気は一メーカになってしまった。 当時を経験していない人には想像ができないと思う。 森が動いたのだ。

それにしても、と思う。高山氏が脇氏を同行してゲイツと直談判したのは、「トップ会談」ということだと思うけれども、いかにも日本的で、 ゲイツには不可解だったことだろう。「アイデア・マン」には、ゲイツが来日した際、「アレンとともにある日本の企業(おそらく」に接待を受けたことが 書かれている。ゲイツ達は「女性がいるところが良いか、美食が良いか」と聞かれ、アレンは「ゲイツは女性のいるところを希望するだろうと 思いながら、美食と回答した」と書いている。そして二人は、「6000ドルの夜食」をご馳走になり、ゲイツは「アレンに信じられるか?」とささやいたようだ。

NECが動かないと思っていた森を動かしたのは、OS特に日本語化、今日で言うところの「グローバル化」だ。 それについてトピックの一つとして追加しようと思う。

「パソコン世界の嵐」に、1992年11月9日に、日本電気が日本経済新聞に出した「意見広告」のことが書かれていた。 いろいろ探したが画像が見つからないので、本文を引用する。

「98は、問う。
日本で使うパソコンは、どうあるべきか。98は、事実をもってお答えします。

1. ソフトが少なくて、使えますか?
●98の事実 98ソフト 14,500本 (DOS/V日本語対応ソフト約800本)
      ソフト提供会社 3000社
      関連出版物 750冊
●98は、パソコンもソフトがなければただの箱と考えています。

2. サービス・メンテナンスが不安で使えますか。
●98の事実 全国展開のNECマイコンショップ 339店
      全国展開のNEC PIプラザ 422社
      全国展開のサービス拠点 379ヶ所
      全国展開のパソコンスクール 受講生年間4万人
●98は、サービス・メンテナンスも性能だと考えています。

3. 日本語が使いにくくて、平気ですか。
●98の事実 日本語ソフトの適した基本設計 FDD×2またはFDD×1+RAMドライブ
      高速日本語表示
      一貫したキーボードレイアウト
      カラー文化を支えるTFT液晶
●98は、右ハンドルパソコンであるべきだと考えています。

4. みんなに愛されているのは、なぜでしょう。
●98の事実 出荷累計 576万台
      国内メーカ別シェア 53.1%
      十年間徹底した資産継承
●98は、最新の技術で最大の満足を提供し続けます。

ありがとう十周年。これからも98。
NECグループ

「パソコン世界の嵐」は、1993年5月に刊行されている。当時の状況について、カバーに書かれた説明が参考になる。

天王山を迎えたパソコン戦争の内情に鋭く迫る。NECが過半を押さえる日本のパソコン市場に米国メーカ-が進出し、熾烈な低価格競争が始まっている。 ダウンサイジングの波に直撃されたIBMが史上最高の赤字を出すなど、コンピュータ業界は揺れに揺れている。パソコン戦争の明日を読む書き下ろし文庫。

9/14/2015

忘れられたもう一人の生みの親

「Macintoshを創ったのは誰か?」と聞かれたら、多くの人が「スティーブ・ジョブズ」と答えるだろう。 しかし、「Macintoshの名付け親は誰か?」と聞かれて、わかる人は少ないだろう。 答えは、ジェフ・ラスキンだ。しかし、文献を調べると、ラスキンはただの名付け親ではないことが わかる。少なくともMacintoshプロジェクトの生みの親であるのは間違いない。 でも、それも不十分だ。

ジョブズがXerox PARCを訪問して、「これは宝の山だ」と興奮して、開発したのがMacintoshだと 言われている。そのことはもちろんアイザックの「スティーブ・ジョブズ」にも書かれている。 しかし、そこにはなぜジョブズがPARCを訪れることになったか書いていない。

それについて、「マッキントッシュ伝説」のジェフ・ラスキンのインタビューに書かれている。

  • ジェフはApple IIのマニュアルを手がけたことがきっかけで、ジョブズに誘われ1977年会社ごとアップルに移った(ジェフはシリアル0002のApple IIを持っている)
  • それまでのマニュアルは技術用語と命令口調で書かれていたが、ジェフは理解できる言葉でマニュアルを作成した
  • 製本は、操作をしながらマニュアルを読めるよう、背綴ではなくリングを用いた
  • カラー写真を用いた(当時のコンピュータ業界では広告以外にカラー写真を使うのはまれだった)
  • ジェフは、アップルが力を入れて取り組むべきことは「アプリケーションの品質である」と考え、会社に「ソフトウェア製品の品質管理セクション」を作ることを提案した
  • 1979年、ジェフは会長だったマイク・マークラにMacintoshという製品のアイデアを話した。よく知られているようにこれはジェフの好きだった林檎の名前に由来する
  • ジェフのMacintoshプロジェクトは社内で理解が得られず何度もつぶされそうになる、そこでジェフは、教え子であったビル・アトキンソンと画策して、ジョブズをPARCに行かせた

ラスキンはそうした経緯を説明した後で、「ジョブズがPARCで触発されてLisaとMacintoshのプロジェクトをスタートさせたというのは、まったく作り話で、それが 確認されないままいろいろな書物に引用された」と語る。そして、結局、ジョブズはラスキンを追い出し、ラスキンはアップルを退社することになる。 このエピソードは、同じ「マッキントッシュ伝説」に掲載されているジョアンナ・ホフマンのインタビューとも符合する。

ラスキンに関する情報は少ないが、「実録!天才プログラマー」にもラスキンの詳しいインタビューが掲載されている。 ラスキンは、Apple IIe用にSwiftCardと呼ばれる製品を開発した。 SwiftCardは、「わずか15のコマンドと64バイトのコードで、ワードプロセッサ、情報検索、テレコミュニケーションを装備したパッケージ」を目指したという。 SwiftCardはシンプルさを追求したユニークなシステムで、たとえばファイルを消すということをしない。 SwiftCardについて、ラスキンは「われわれは、古くさいアップルIIe、つまり、1メガヘルツのプロセッサで実行するプログラムをつくり出した。 しかし、このプログラムのユーザにとっては、IBM, マッキントッシュ、メインフレーム、スーパーVAX等よりもアップルIIeの方が実行速度は速いわけです」と 語っている。これは、人間が同時に行う作業は一つで、その作業に専念させるための能力は低くて良いということを言っているのだと思う。 それは逆に言えば、とてつもなく発達した現在のPCは無駄にその能力を使っている、ということと同じだ。 SwiftCardを体験することは今となってはできないが、多分、HP200LXにつながるものがあったのだろうと思う。と書きながら、HP200LXの クロックはいくつだっけ?と気になり調べてみたら80C186(クロック周波数7.91MHz)だった。

WindowsもOSXもLinuxも、UNIXの階層ディレクトリの流れを汲んでいるが、SwiftCardはOSがなく、ユーザがファイルシステムを意識することもない。 2015年の現在もそのユニークさを失っていない。 ラスキンが残した、"Humane Interface"という本をいつか読んでみたいと思う。

ラスキンは2004年に亡くなっている。死因は奇しくもジョブズと同じ膵臓ガンだった。

9/13/2015

二通の手紙

  • http://www.engadget.com/2007/02/06/steve-jobs-posts-his-thoughts-on-music-and-drm/

9/11/2015

二人のジョブズのHPの思い出

WozはHPのエンジニアとして働きながら、Apple Iを作った。 Wozは、「アップルを創った怪物」で「ヒューレット・パッカー時代」という章を設け、HPについて書いている。

HP社は、スタンフォード大学を1934年に卒業したビル・ヒューレットとデイブ・パッカードが1939年にガレージで立ち上げた会社だ」

上の写真の後ろのガレージがその有名なガレージだ。

HP社では、管理職にならず、ずっと現場でキャリアを積むことができる会社で、実際年上のエンジニアで管理職になっていない人が何人もいたと書いている。 WozはHPで約4年間働いており、電卓回路とその設計に関する仕事をしていた。具体的には、電卓用プロセッサーを公安したエンジニアが書いた図面をチェックし、チップの改良をしていたという。 HPのエンジニアには、飛行機の操縦免許を持った人が多くいて、驚いたことにときどき小型飛行機でお昼を食べに行っていたという(ウォズも免許を持っており、 後年事故を起こしている)。

ジョブズは、「ロスト・インタビュー」の中で、12歳の時にHPで働いた経験について話している。 あるときジョブズは、電話帳を見て、創業者の一人、ビル・ヒューレットに電話をかけた。

「こんにちは。僕はスティーブ・ジョブズと言います。あなたは僕のことを知らないと思いますが、僕は12歳で周波数カウンターを作っていて、予備の部品が欲しいんです。」
ビル・ヒューレットは、12歳の子供からの電話に20分くらいつきあい、部品をくれた上に夏休みの間、ジョブズがHP社で働けるよう手配をしてくれた。 ジョブズにとって、会社について学ぶ初めての機会であり、会社とはどのようなものか、HPが従業員を大切にしていることを知ったと話している。 「当時は誰もコレステロールのことを知らなかったから」という前書きをつけて、ジョブズはHPが毎日午前10時になる(ウォズは午後2時にもあったと書いている)と大きなカートでコーヒーとドーナッツが 運ばれてきて、みんなでコーヒーを飲み、ドーナツを食べたと懐かしんでいる。

ジョブズはインタビューで、「一つのきっかけが次へとつながっていって」として、一本の電話から、ジョブズが毎週火曜の夜にHPの パロアルト研究所の実験室に出かけ、研究者に会ったり、そこで世界初のデスクトップ型コンピュータHP9100を見たりした、と話している。 ジョブズはそこで、BASICやAPLでプログラムを書いて何時間も過ごしたという。そして、そこでジョブズはウォズに出会う。

ジョブズのスタンフォード大学のスピーチ、2番目のストーリー、"love and lost"でジョブズは「なぜ自分が興した会社でクビになるのか?」と嘆いている。 人生をかけたものが失われ、茫然自失の状態となり、数ヶ月何をしていいかわからなくなったジョブズは、「デビッド・パッカードとボブ・ノイズに会って謝りたいと思った」と 言っている。 スピーチから、ジョブズが12歳の自分につきあってくれたビル・パッカードに感謝し、尊敬の念を抱き続けたことを感じさせる。

ここで賢明な読者は、「もう一人のボブ・ノイスは誰で、なぜジョブズは彼に謝ろうとしたのか」と気になるかもしれない。

もうひとつの "Think Different"

この動画は、かの有名な「Think Different」のCMだが、実際にオンエアされたものではない。 アイザックソンの「スティーブ・ジョブズ」では、第24章で詳しく説明している。

  • このCMは、アメリオが辞任した後、1997年にジョブズから「1984」を制作したリー・クロウに依頼された
  • 「テーマはプロセッサーのスピードやメモリーではなく、創造性だった」
  • ジョブズはクロウに、「アップルの人間も、アップルとはなにか、自分たちはどういう人間なのかがわからなくなっていた。それを思い出すきっかけには、誰が自分にとってヒーローなのかを考えて見るといい」と語った
  • 「彼らは人間を前進させた」など一部はジョブズが書いている
  • 実際に使われたCMは、リチャード・ドレイファスがナレーションをしているが、その他にジョブズ自身がナレーションをつけたバージョンも作られていた
  • オンエアの当日までどちらを使うか決まらず、両方のバージョンが出荷され、最終的にはドレイファスのものが使われた

アイザックソンは、このCMについてジョブズに取材したときのエピソードを書き残している。 ジョブズは、リーが深くアップルを愛していることがわかったと言い、「シンクディファレント」の素晴らしさに込み上げるものがあり、このCMのことを思い出すと泣いてしまう、と語った。 (アイザックソンがその話を聞いたときにも、「ジョブズは肩を震わせ、涙を浮かべた」とある)

ナレーションの内容に興味がある方に、DNAの記事を紹介する。

本ブログでは、アイザックソンの「スティーブ・ジョブズ」を多く参照しているが、日本訳を出版している講談社が、この本のためのリンクを用意していることをご存じだろうか。

上のリンク先ページの下部では、読者に限定せず一般に公開の形で、いくつかのPDFを配信している。その中に日本語版書籍に含まれていなかった「終章」がある。 アップルキャンパスで行われたアップル社によるジョブズの追悼式で、ジョブズ自身がナレーションを行った"Think Different"が流され、その説明で終章が終わっている。 特定の書籍のためにページを設け、終章などの文書をひっそりと配信することに、ジョブズに対する敬意を感じる。このページから書籍も購入できるが、ペーパーバック版も存在していたことは初めて知った。

9/10/2015

リンク集

  • http://dailynewsagency.com/2011/10/08/unaired-think-different/
  • http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/genesis/001/01.html
  • http://kogures.com/hitoshi/history/pc-os/index.html
  • http://blogs.wsj.com/digits/2011/08/24/steve-jobss-best-quotes/
  • http://scan.netsecurity.ne.jp/special/3039/recent/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96%E3%82%BA
  • http://retrotechnology.com/dri/cpm_presentation.html
  • http://www.theregister.co.uk/2011/10/06/steve_jobs_bio_1?page=1
  • http://book-sp.kodansha.co.jp/topics/jobs/#JobsPDF
  • http://scaruffi.com/politics/sv.html
  • http://www.macmothership.com/gallery/gallerytextindex.html
  • http://www.wordsonimages.com/search?q=steve+jobs
  • http://hp.vector.co.jp/authors/VA023355/history.html
  • http://news.mynavi.jp/column/svalley/550/
  • http://www.guidebookgallery.org/index
  • http://www.nydailynews.com/news/steve-jobs-1955-2011-gallery-1.966352

9/09/2015

運命のすれ違い

1974年、ゲイリー・キルドールは、インテルの8ビットCPU, 8080用にオペレーティングシステムを開発、販売した。 そのオペレーティングシステムが、CP/Mだ。これはALTAIR8800の半年前だというから驚く。 キルドールはその後、Z80など他のCPUにもCP/Mを作っていた。CP/Mは、8ビットパソコンの標準OSとして、高いシェアを獲得し、 キルドールはスポーツカーや個人用ジェット機を所有していたという。

IBMがパソコンを扱おうとしたとき、当然CP/Mを開発していたDigital Resarch社が浮かぶ。 しかし、IBMが実際に交渉したのは、マイクロソフトだった。 「新・電子立国1 ソフトウェア帝国」では、IBMは勘違いしてマイクロソフトに交渉に行ったと書いている。 NHKはIBMのジャック・サムズ、マイクロソフトのアレンとゲイツを訪れインタビューしているが、 それによると、

  • サムズは一年以内にIBM PC用のOSを必要としていた
  • サムズはマイクロソフトがCP/M用のBASICを販売していたことから、CP/Mを開発したのもマイクロソフトだと勘違いしていた
  • ゲイツはとても一年以内にOSを開発できないので、サムズにDigital Reseach社に相談することを薦める

キルドール自身が取材に応えて語っている。

ある日ゲイツから連絡があり、「IBMがマイクロソフトにきて、CP/Mをライセンスできるかどうか聞いている。 (IBMとの商談を逃したくないので)そちらを紹介した」と言った。 実際にIBMから連絡があり、IBMは打ち合わせを申し込んできたが、その日自分は用事があり、妻と話すように伝える。 IBMは約束どおりに訪問し、キルドールの妻と会うが、彼らはそこで話をする前に機密保持の契約書へのサインを求める。 それは、IBMとしてはごく普通のことだが、キルドールの妻はこれを拒否し、打ち合わせは成立しなかった。

キルドールは、仕事一辺倒ではなかったようで、CP/Mの売り上げで、スポーツカー10台以上、自家用ジェットも所有しており、 またアポイントが取れないので有名であったらしい。彼にとっては、巨人IBMも他と同じだったのだ。 IBMはなんとかキルドールと交渉しようとし、自宅にも訪れる。詳細な経緯は不明だが、 キルドールは「IBMはCP/Mのすべての権利を25万ドルで買いたがっていたが、それを断った」と述べている。 キルドール(Digital Research)にとって、CP/Mは稼ぎ頭で、それを完全に手放すことはあり得なかった。 その結果、IBMは再びマイクロソフトに相談することになる。

ゲイツとアレンは、キルドールとまったく逆で、なんとしてもIBMとの商談を成立させたかった。 しかし、一年以内にIBM PC用のOSを作れない、そこで、アレンが思い出したのが、 同じシアトルにあるシアトル・コンピューター・プロダクト(SCP)社の86-DOSだ。 86-DOSは、ティム・パターソンがCP/Mのクローンでティムが独自に開発していた。

ゲイツ、アレン、ケイ(西和彦)それにスティーブ・バルマーが集まり議論していたときに、 有名な西の「やろう」が出てくる。ペンキの塗り直しでもなんでも良い、とにかくやろう、 マイクロソフトはOSを提供しよう、ということになった。それで、のちのMS-DOSとなる。 Digital Researchはその後1982年にIBM PC用のCP/M-86を販売するが、MS-DOSを覆すことはなかった。

IBM PCがデジタル・リサーチでなくマイクロソフトにOSの開発を委託した経緯については、多くの書籍、Web、記事で、 「そういうことがあったらしい」と書かれている。そうなった主な理由は、当事者であるキルドールが、 みずから語っておらず、取材も受けていなかったからに違いない。 自分はこの内容について、アレンの「アイデア・マン」など信頼すべきリソースを参考にしていたが、 1997年にNHKスペシャルとして放送された「新・電子立国」のシリーズの書籍を読み、それが実際に 起こった出来事であることを確認した。NHKのクルーは直接キルドールにインタビューしており、 キルドール自身の「マイクロソフトはCP/Mを盗んだ」という言葉を映像と書籍に記録している。 NHKのクルーが取材を終えて、日本に戻る前に、キルドールは急死し、書籍にはそのときの新聞記事の画像が 貼られている。奇しくもNHKはキルドールの最後の取材者となったのだ。

Blogの構成を見直した

このブログは作成した後そのまま放置していたものを、講演のワーク用に使っている。 Bloggerの機能や設定がわからず試行錯誤していたが、最近、だいたい要領がわかってきた。 やりたいことはほぼできているけれど、投稿のurlの付与規則になじめない。

Bloggerで新しい記事を投稿すると以下のようにurlを作成するようだ。

  • タイトルから英数字以外と半角スペースを除いた文字列に.htmlを付与する
  • タイトルを指定しない場合、blog-post数字.htmlという名前にする
たとえば、「私はMacとAppleが好きだ!」というタイトルで新規記事を作成すると、それはMacApple.htmlというファイル名になる。 「私はアップルが好きだ」の場合、blog-post9.htmlのようになる。これはとても気持ち悪く、 そのくらいならすべてがランダムの数字のほうがましだ、と思う。

これはBloggerの機能で、タイトル名の他にHTMLファイル名を指定できるようにする、また、 投稿一覧の画面で「ファイル名変更」のインタフェースをつければ良いがそうはなっていない。 そこで、次のような方針で対応することにした。

  • url名をつけたい投稿は、タイトルにそれを記載する(.htmlを除いて)
  • 作成されたページを編集して、本当のタイトルに変更する
  • それ以外はurlのことは気にしないようにする
たとえば、ブログの説明はabout.htmlとしたいので、aboutというタイトルで空の投稿を行う。 参考情報は、これまで書籍、動画等分けていたけれど、referenceとすることにして、 referenceの投稿を作成、既存の投稿の内容をそこにコピーし、既存の投稿を削除した。 同様に講演の中で紹介しようと思っている動画は、moviesとした。

その他、これまで個別の投稿について文中で参照していた書籍のアイコンを置いていた。 これは内容に興味を持った人が購入等しやすいようにという配慮だが、 その作業も結構手間なので、やめることにした。一通り記事を書き終わったら、本当に興味を持った人が 調べられるようにreferenceを作成し、各投稿にはaboutとreferenceへのリンクを 置こうと思っている。

このブログについて

2015年6月、会社の同僚から10月に、ある大学で学生向けに講演してもらえないかと相談を受け、対応することにしました。 内容は基本的に任せるということで、若い学生のために参考になるような話をしたいと思って、準備を始めました。 「プログラムに掲載するので、とりあえずタイトルを知らせて欲しい」と言われ、何も決まっていないのですが、 「人生をより良く生きるためのプレゼンテーション入門(仮)」として、それ以来何を話そうか考えています。

比較的時間が長いので、就職活動の参考になる話を含め、複数のテーマについて話をしようと思い、技術的なテーマのひとつには ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で行った講演を含めることにしました。 それで、参考書籍等情報を集め始めました。自分の講演準備は、伝えたいメッセージが整理できるまで、 ひたすら情報を集めるというもので、その間は形に残るアウトプットは何もありません。 書籍を読んだら、そこで紹介されていた書籍を入手し、著者に興味を持ったら、その著者が書いたものを調べる、 というようにとうてい講演に収まりきらない範囲まで、自分に情報をインプットする日々が続きます。 9月になり、自分の中に伝えたいメッセージや構成のアイデアなどが浮かんできたので、それを メモ帳あるいはワークペーパとして残しておこうとして、昔作成したきりになっていたBloggerを使うことにしました。

Bloggerの記事は「投稿」と「ページ」の2種類があって(ということは実はつい先日知りました)、前者は日付付きの urlがつきます。そこにテーマごとのワークを書きためていました。「投稿」はもともとブログ用のもので、 インデックスに相当するものがないため、「ページ」にインデックスを作成し、ブログのレイアウト機能を用いて、 各記事のタイトルからインデックスを開ける、そしてインデックスから「投稿」を開けるように(9/11)しました。 「投稿」を読むと(普通のブログのように)作業状況とワーク(メモ)が読めます。ある程度、まとまったものは、 「ページ」のindexでタイトルを見て読みたいものを開けます。本来想定されていない、一種邪道な使い方で、 多分Bloggerをこんなふうに使っている人はいないだろうと思います。

小説家が「小説を書き始めると登場人物が勝手に動き出す」というように、主題を調査して掘り下げていくと、 おのずと話がつながっていきます。今回のケースで言えば、ジョブズの講演から、PCの歴史と(今のところ) つながっています。果たしてこんな古い話を掘り返して意味があるのか、学生が興味を持つのかはわかりませんが、 ここでまとめている話は重要なことを含んでおり、価値があると自分の直感が伝えます。 その直感を道案内に自分のできる最善を尽くしたい、そう思いながら作業しています。 人生は限られているから。

movies

参考動画

「ビル・ゲイツの野望」を読んで

脇英世さんの「ビル・ゲイツの野望」を読んだ。この本は、1994年に出版されたもので、マイクロソフトについて書かれている (内容には関係ないが、カバーに歪曲したゲイツの顔写真が使われていて、持っていると呪われそうだ)。 あとがきにこんなことが書かれている。

材料は集まっても、なかなか速くは書けなかった。ものすごく消耗する仕事であって、一定のスピードでは進まなかった。完全に止まってしまうこともあり、またしばらくして、やっと先へ進めるということの繰り返しだった。

この本には参考文献のリストはないが、本文を読むと脇さんがどのくらい文献を集め調査をされたかが想像がつく。また、書かれている内容の正確さもわかる。なぜ正確さがわかるかというと、自分はこの本が書かれた後の資料を見ており、特にマイクロソフトについては、ポール・アレンの「アイデアマン」を読んでいるからだ。また、脇さんの本には、マイクロソフトの契約や裁判について、自分が知らなかった情報が含まれていた。たとえば、MITS社とマイクロソフトの契約は、ゲイツとその父親とアルパカーキの弁護士が作成したものである、とかALTAIR8080が表紙になった広告の写真は、実はALTAIRのケースだけで中身がなかった等々。

この一連の記事というかブログは、10月の講演に向けてメモ帳代わりに使っている。 最初は、ジョブズの足跡から始まり、PCの歴史、BASICとMS-DOS、マイクロソフトということで、再現なく調査対象が広がってしまった。 そろそろ講演のストーリーの検討を始めようと思う。

9/08/2015

ジョブズのこだわり (1)

上の画像は、文具王・高畑正幸さんの公式サイトの記事に掲載されているもので、クリックすると記事が開く。 SIMカードを取り出すための工具をこれほど美しくする必要はないし、利用頻度を考えると 同梱品とすることもない。普通はそう思う。 しかし、ジョブズはそうは思わなかったのだろう。 その理由を説明した文章を読んだことはないが、この工具を見るたびに、そこに込められた思いと意味がなんだろうと考える。

Apple IIの中身は、ウォズが一人で創り上げた。 ジョブズがしたことは、それをケースに入れ、エンブレムをつけた、それだけだ(そのときの様子は、「スティーブ・ジョブズの王国」に詳しく書かれている)。 昔、自分が月刊ASCIIのApple IIを見とれていたのは、別にそれを買ってプログラムを書きたいとか、ゲームをしたいということではなかった。 そこに普通でない何か、特別なものを感じ、惹かれていたのだ、と今わかる。 普通でないものを創り上げるには、とてつもないエネルギーが必要だ。まして、自分自身が手を動かすものでなければなおさらだ。

大人になった今も、Apple IIや初期のiPod、あるいはMacintoshの写真を見ると、そこに惹かれるものを感じる。 Apple IIの筐体は見飽きないし、青みがかったMacintoshの画面を美しいと思う。 ジョブズは多分、自分がそうしたくてしただけだろうけれども、彼が遺してくれたものはギフトのようだ。

参考情報

このブログの作成にあたり(あるいは今回の講義の準備にあたり)参考とした資料について、ここにまとめる。

動画

ジョブズについては、今回講演の話が来る前から興味を持ち情報を集めていた。その中に、NHKで放送された番組がある。 NHKは、ジョブズに関する番組をまとめたページを(放映後も)残し、ときどき更新もしているようだ。

-NHK スティーブ・ジョブズ特集|NHKスペシャル 世界を変えた男 スティーブ・ジョブズ

自分は、上のリンクにある番組のうち、「ジョブズ氏と米国西海岸文化」以外はNasneに録画している。 それをPSP goやVitaに転送して、時々見ていたけれど、講演の素材として使うことになるとは思わなかった。

上記のリンクにはないが、今年の6月8日に「BS世界のドキュメンタリー」のシリーズで、 「スティーブ。ジョブズvs.ビル・ゲイツ」がオンエアされている。そちらも視聴したが、自分のお勧めは「スティーブ・ジョブズの子どもたち」だ。 この番組では、ジョブズにスピーチを依頼した経緯と、講演後のジョブズのコメントが含まれている。

これらの番組は、NHKオンデマンドでも見つからず、見ていない人は再放送を待つしかないが、 NHK出版から出ている本「Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言」を読むと、オンエアされていない部分を 含む情報が得られる。今回、自分も購入したが、もとの番組を観すぎていた?ので、逆にあまり参考にならなかった。

書籍

参考にした書籍について、Amazonのバナーを貼っておく。 書籍はもともと自分でしていたものに加え、参考になりそうなものがあれば購入していた。古書はAmazon等で安く購入できるが、 数が増えると費用、置き場所も馬鹿にならないので、図書館も利用している。 図書館は、自宅のある横浜市立図書館、職場に近い中央区図書館の他、港区立図書館を利用している。

9/06/2015

IBM PCが遺したもの

巨人は、その躓きも大きい

メインフレームの覇者であり巨人だったIBMは、PC(パーソナルコンピュータ)について、ひどく躓いた。

  • そもそもスタートが遅すぎた
  • PCの普及、ビジネスを予想できなかった
  • 自社で開発しようとしなかった
  • OS/2を普及させることができなかった
  • マイクロソフトとの契約に失敗した

歴史を振り返ると、巨人IBMはIBM PCという名前および標準を提供し、互換機メーカを育て、マイクロソフトに帝国を作らせたボランティアのようだ。 しかし、自分が目を通したあらゆる文献について、「IBMの出したPCがこれほど普及する」と予想した人はなかったらしい (ゲイツもアレンもジョブズも含めて)。

なぜ、IBM PCがそれほど売れたかわからないが、Wikipediaに面白いことが書いてある。

1981年のIBM PCに付属したオリジナルのキーボードは元々、開発中止となった$10,000のIBMコンピューターシステムのためにノースカロライナで開発された、当時最も頑丈で高品質なキーボードであった。

NHKの新電子立国のシリーズで、IBMの関係者が取材に答えて言っていた内容がこれに符号する。 「あまりに時間がなくて、ほとんど自社では製造していない。唯一キーボードくらいだ」。 IBMは、IBM PCの廉価版、PCjrという製品を出しているが、こちらは極めてへなちょこのキーボードで、そのせいもあってかほとんど売れなかったようだ。

参考

マイクロソフトの「したたかさ」

ポール・アレンの「アイデア・マン」から、マイクロソフトの契約について触れている内容を書いておく。

IBMとの契約

  • IBMはマイクロソフトに合計で43万ドルを支払う、その内訳は、
  • ソフトウェアをIBMのマシンに適合させる作業、テスト、コンサルティングに7.5万ドル
  • DOSに4.5万ドル
  • 16ビット対応各種言語のインタプリタ、コンパイラの開発に31万ドル

マイクロソフトは、DOSのライセンスをIBM以外のハードウェアメーカーに自由に供与する権利を持つことを条件に、IBMに対してコピーごとのロイヤリティを受けることを放棄する。 アレンは「IBMはこれに異議を唱えず、むしろ過去独占禁止法違反で提訴されたことからむしろ進んで同意した」、そして「この時の実に気前のいい態度を、IBMはあとになって激しく悔やむことになる」と書いている。 マイクロソフトは、この契約により、あらゆるハードウェアベンダにMS-DOSを提供し、のちにそれを足がかりにWindowsをスタンダードとすることに成功することになるが、 この契約をしている段階では、マイクロソフトは16ビット用のOSを持っておらず、IBMの提示してきた期限に向けて開発することも不可能だった。 そこで、アレンとゲイツはSCPに出向き、86-DOSに関する契約の修正を試みる。その内容は、「3万ドルを支払い、その額で今後一切追加料金なしで、マイクロソフトが自由にライセンスを使用できる」というものだった。 SCPの所有者であるロッド・ブロックは、金額を5万ドルとして、アレンと契約をするが、その時点では、マイクロソフトが86-DOSをIBMに提供しようとしていることを伏せている。 アレンは、それについて「騙し討ちに近いことだとわかってはいた。DOSは巨大な価値を持つ資産だとわかっていたのに、その価値からすればタダ同然の価格で自分のものにしてしまったのだ」と書いている(正直だ)。

MITSとの契約

アレンとゲイツがマイクロソフトを興すきっかけとなったのは、二人がMITSが開発したALTAIR8800用のBASICの開発に成功したからだ。 ALTAIRの生みの親であるMITSのエド・ロバーツは、自分自身でさえ何ができるかわかっていなかったALtAIR8800でBASICに動いたことに感激する。 アレンとゲイツは、MITS社に8080向けのBASICを販売することになり、最初は口約束だったが、アレンとゲイツは正式な契約を交わすべきだと考え、 要求条件をまとめ、ビルが地元の弁護士に書面を作成してもらう。IBMとの契約につながるその内容は、

  • MITSは向こう10年間、BASICを世界中で独占的に販売する許可、権限を得る代わりに、前金で3000ドルを払う
  • バージョンによりコピーあたり30ドルから60ドルを支払う
  • MITS社が他社にALTAIRと同等のコンピューターを製造するライセンスを与えた場合、そこから得られる収益を折半する
  • アレンとゲイツは、自分たちの作ったソフトウェアの周遊券を持ち続けることができ、MITS社を通す限り、そのソフトウェアに関係する契約を誰とも自由に結ぶことができる
  • MITS社は、BASICによる収益の増加のため最大限の努力をする、それを怠った場合、アレンとゲイツは契約を打ち切ることができる

この契約を見たエドは、「俺は君たちを信用している。今すぐサインをするよ。中身を読むつもりはない」と言う。 アレンとゲイツは、それを聞いて顔を見合わせる。アレンはこう書いている。 「エドを騙そうと思ったわけではないが、契約は間違いなく私たちに有利になるように作られている」。

アレンは、アレンとゲイツの会社にとって、はじめてBASICの契約を交わした瞬間が特別な瞬間であり、契約を交わした以上、二人のチームに 名前が必要と考えた、と書いている。そうして、つけられた名前が、「マイクロソフト」だ。 このマイクロソフトに有利な契約について、MITSは後に訴訟を起こす。しかし、弁護士が追加した最後の条項が二人を守り、MITSは敗れる。 マイクロソフトは巨人IBMとも裁判で争うことになる。

9/03/2015

スタンフォード大学伝説のスピーチのエピソードについて

依頼を受けた経緯

なぜジョブズがスタンフォードの卒業式でスピーチをすることになったか、その経緯について、 2012年1月7日にNHK BS1でオンエアされた「スティーブ・ジョブズの子どもたち」で紹介されている。

ジョブズに講演してもらおうというアイデアは学生たちから出た。 番組では当時生徒会長の一人だったジェニファー・スティーバーが語る。 ジョブズの名前があがったとき、メンバーから同意の歓声が上がった。 そして学生たちは正装して、卒業式の前日にジョブズを夕食に招いた。 ジョブズは黒いタートルネックで、「さっさと片付けたい」と、また「なぜ引き受けたのかわからない。何を話すかわからない」と言ったという。

想定外

「伝説のスピーチ」が想定外だった、というと驚く人は多いと思う。 番組の冒頭登場した当時の学生は、「サクセスストーリーをしてくれるのかと思った」と語る。しかし、 実際の内容は違った。

ジェニファーは語る。「始まった瞬間から信じられなかった。学費はお金の無駄だみたいに言うなんて」、と。 彼女は「怒りすら覚えた」し、「大学を中退したなんて唐突すぎる」と感じた。

準備

アイザックの本にジョブズがどのように講演を準備したか書いてあるが、 その内容は意外なものだ。

ジョブズは、どんな話をすれば良いかわからず、脚本家アーロン・ソーキンに相談しようと考え、 2月にアイデアを送る。しかし、アーロンは6月になっても何も言ってこない。 ジョブズはプレゼンテーションの内容は自分で考えるが、 果たして卒業式で何を言えば良いか思いつかず悩む。 最終的には、妻に相談して、書き下ろす。

後日談

「伝説のスピーチ」を終えたジョブズの様子について、前述の「スティーブ・ジョブズの子どもたち」で紹介されている。

ジョブズは、講演を依頼した学生たちにメールを書いている。

Thank you very much. It was really hard for me to prepare
for this, but I loved it (especially when it was over...).

All the best,
Steve

2010年6月、「もし、もう一度講演を行うとしたら、何か付け足したいことはあるか?」と聞かれたジョブズは、 下を向いて少し考える。そして、顔をあげて言う。 「たぶん、もう少し大きな声で話をすると思う。人生は儚いから。」

9/01/2015

日立・東芝・ソニーが参加しないCEATEC

定点観測サイトのひとつ、NEVADAブログに残念な記事が掲載されていた。

10月に開催されます日本最大の家電見本市(シーテック)ですが、日立・東芝・ソニーが参加を取りやめるとなっており、大手3社が参加しない見本市となってきており、もはや日本を代表するといえなくなってきています。

引用元: NEVADAブログ「風前の灯火(日本最大の展示会)」

2004年にCEATECで、「Linuxセキュリティ強化エッセンシャル」と題して講演を行った。 下はそのときのスライド。 SlideShareではわからないが、この講演ではFlashで作成したアニメーションを PowerPointに埋め込んである。

What was NeXT?

8/31/2015

ジョブズが遺したもの

「ジョブズが遺したものは何か」と聞かれたら、多くの人は、「Mac, OSX, iPhone, iOS, iTunesMusicStore」などと答えるだろう。 しかし、意外なところに大きな足跡が残されている。 「インサイド・アップル」他に、ジョブズとディズニーの交渉について書かれている。

話の前提として、ディズニーについて知る必要がある。 まず、ディズニーはニューヨーク市長をイベントのホストにするほどの強大な力を持っている。 そして、ディズニーは、ウォルト・ディズニーの死後、進むべき道を失い、ヒット映画を出せないでいたし、 デジタル化に備えができていなかった。 ディズニーはあまりに有名で、誰もそのビジネスが行き詰まることを考えないが、実際には 白雪姫など過去の名作を食いつぶす状態になっていた。 「ディズニーランドがあるじゃないか」と思うかもしれないが、 ディズニーランドは、映画で知られたキャラクターによるビジネスなので、 映画がヒットしないと行き詰まる。

「インサイド・アップル」から引用する

すでに触れたように、1996年にウォルト・ディズニーが死去したあと、ディズニーの経営陣が長年「ウォルトならどうする?」と問いつづけたことはよく知られている。だが、ウォルト・ディズニー・カンパニーはアップルがまねてはいけない前例である。ウォルトの死後、会社が急激に傾いたからだ。
ディズニーのアニメ映画がまた軌道に乗ったのは、1988年公開の『ロジャー・ラビット』と翌年の『リトル・マーメイド』からだ。 (中略) パラマウントからディズニーに移ったCEOマイケル・アイズナーのもとで2作品は成功したものの、ディズニーはイノベーションの面で大きく立ち遅れた。ジョブズが資金を出したピクサーは、コンピュータを利用したアニメーションの将来に早くから気づいていた。結局、ディズニーがみずから生み出した分野で最新のテクノロジーに追いつくには、ピクサーを買収するしかなかったのだ。

ジョブズに関係なく、ピクサーはトイストーリーを制作する契約を結んでいたが、 その契約は、圧倒的にディズニーが有利なものであった。 ジョブズはトイストーリーの成功により、ディズニーと交渉し、他とはあり得ない内容にする (その具体的内容は後で追記する)。 ディズニーとピクサーの契約内容は、目に見えないが、目に見える変化がある。 ジョブズは、ピクサーのロゴについて、「ディズニーと同じ大きさにする」ことを ディズニーに飲ませた。ディズニーランドでもディズニーストアでも、 あるいは、DVDでも見るとわかる。すべてに「ピクサー」の名前とロゴが 巨人、ディズニーと対等に並んでいる。

このような契約は、巨人ディズニーにとって、屈辱的であり得ないものであり、 ディズニーの経営陣は話を聞いたとき激怒し抵抗したが、それが 株主の怒りを買い、経営陣自体が追い出されることになる。

ピクサーは今はディズニーに買収されているが、 ピクサーのWebページを見てもどこにもディズニーの名前は登場しない。 ピクサーはピクサーとして、名前と尊厳を持ちながら、生き続ける。 ジョブズが意思にしたがって。

8/30/2015

Wozの魔法使い

僕はジョブズを嫌いだった

「レボリューション・イン・ザ・バレー」の推薦文には、はっきり書いていないが、 自分は以前、ジョブズが嫌いだった。 その頃、自分が持っていたジョブズのイメージは、「技術者であるウォズの仕事で金を稼ぎ、自分を売り込むプロモーター」だった。 ウォズが表に出ない分、ジョブズの存在を苦々しく感じていた。 ウォズが並外れて優れた技術者であること、ジョブズが技術者でないことを自分がいつ どのように知ったか、今は確かめることすら難しくなったけれど、 一つ明確に覚えている記事がある。 それはウォズがApple ][のFDドライブについて、確か1985年か翌年くらいの (こちらも自信がないが)日経バイトに掲載された翻訳記事だと思う。 日経バイトは、技術指向で大変拡張が高く、優れた記事を掲載していて、 「混沌の館」というコラムが有名だった(このコラムが日経バイトに掲載されていたことは 確認しているが、自分が覚えているウォズの記事が本当にその雑誌に掲載されているかは、 現状未確認だ)。 自分はその記事の技術的な内容を理解できなかったけれど、その価値とウォズの資質を感じることができた。 その記事のコピーを取って、時折読み返していたが、失われてしまって残念に思っている。

「アップルを創ったもう一人の怪物」に、FDドライブ、というよりは「Apple ][のDisk II」のことが 詳細に書かれている。それを読んで、昔自分が感銘を受けた記事が読みたい気持ちが高まっている。 「ジョブズが技術者ではなく、プログラムを書いたり、製品を創っていないこと」は、 今や証跡を必要としないと思うが、「スティーブ・ジョブズ」には、ウォズの父親が ジョブズに「お前は、(Apple ][について)何も貢献していないじゃないか。それなのに 取り分が半分ずつって、おかしいだろ?」と詰め寄られたことが書かれている。 ジョブズは、泣きべそをかいて、「わかったよ。それならウォズが全部とって、自分でやれば良いよ」と 言ったのだ。 もし、そこで本当にそうしていれば、今の世界はいろいろ変わっていたことだろう。

取り分について

「アイデア・マン」に、ポール・アレンとビル・ゲイツの間のおもしろい エピソードが書かれている。

ビルはいきなり本題に入った。「これまで、BASICの仕事は、ほとんど僕がやってきたよね。 それに、僕はハーバードを休学するためにいろんなものを捨ててきた」 彼はそう言った。「取り分、今は六対四になってるけど、僕がもっともらってもいいんじゃないかと思うんだ」
「どれだけならいいの?」
「64対36でどうかな?」

結局、アレンはゲイツの提案を受け入れるが、本にはアレンがその時のことを回想した内容が書かれている。 アレンはゲイツと離れてから、「あの時の64%という数字がどこからきたか」考える、そして、次の結論に達する。
「今、自分は最大でいくらまでなら取れるか」おそらくそれがビルの発想の基本だったのだろう。 2対1とまで言ってしまうと、さすがに私が納得しないことはわかっていたのだ。 だから、それより少し譲歩した64%あたりが限度と思ったわけだ。 貢献度に基づいた数字だと彼は言いたかったのだろうが、私は、ここに図書館員の息子(アレンのこと)と弁護士の息子(ゲイツのこと)の違いが 出たと思っている。

ウォズに興味がある方に、「アップルを創ったもう一人の怪物」以外にお薦めしたいのは、斎藤由多加さんの 「マッキントッシュ伝説」だ。 この本の帯には「天才は何を探求していたのか?"創造者"たちによるMacintosh開発秘話!」とある (実はウォズはMacintosh開発には関わっていないが)。 この本は、斎藤さんがアメリカに一人一人取材に行った内容を書き下ろしたものだが、 Macやジョブズについて書かれた書籍の中できわめて優れ、価値が高い、また読んでおもしろい。 著者の斎藤さんは、一世を風靡したシーマンの開発者で、アップルについては、もう一冊、 「林檎の樹の下で ~アップルはいかにして日本に上陸したのか」を書かれている。 こちらは、タイトルどおりアップルの日本語化および販売について、関係者しか知らなかった 歴史を書いたもので、読後感はあまり良くない(それは斎藤さんの責任ではなく、 経緯がすっきりしないものがあるのだ)。

Wozの魔法

「マッキントッシュ伝説」から、ウォズの言葉を引用する。

私の生涯で最高の仕事はフロッピーディスクドライブだと思っています。 二番目がApple ][です。ソフトウェアであれ、ハードウェアであれ、 私が手掛けてきたプロジェクトの課題は絶対的に「小さい」ということです。 いつでも、でき得る限り最小かつ簡潔で完璧なものになるよう毎晩遅くまで努力しました。

記事との再会

スクラップしていたWozのインタビュー記事について、それが日経バイトに掲載されていたことを思い出したので、 掲載号がわからないか調べていたが結局見つからなかった。しかし、それが「バイト・レポート」(BYTE誌の記事の翻訳)であったことが、 わかったので、キーワードを工夫して調べていて、元記事を見つけた。記事は、2回に分けて掲載されている。

上記の記事は、1984年にBYTE誌に掲載されたと書いてある。それが日本語に翻訳されて日経バイトに掲載されたのはいつか 確認できていないが、自分が就職した1985年前後に違いない。もう30年前に読んだ記事だけれど、記事に掲載されていたウォズの 顔写真は確かに日本語の記事でも使われていた。

8/29/2015

iPodとの出会い

以前、TOMOYO Linuxに関する連載をSoftwareDesignに掲載いただいて技術評論社さんから、「SDの記事を執筆いただいている方に、若い技術者への推薦図書を紹介してもらう企画を考えています。ご協力いただけませんか?」と お話をいただいた。「もちろん」ということで、候補を2冊考えたが、最終的に選んだのが「レボリューション・イン・ザ・バレー」。企画は「SD執筆陣が薦めるこの一冊」として実現し、2009年1月号に小冊子として添えられた(自分は今もその小冊子を持っている)。 この頃は、めちゃくちゃ忙しく、原稿は依頼をいただいてから30分くらいで書き下ろした。この画像は、初稿ゲラのPDF。

この号が出た2009年12月の頃には、ジョブズは日本ではあまり知られていなかった気がする。 他のSD執筆者の方々の推薦図書にも、ジョブズやアップル関連の書籍はなかった。

初代のiPodが発売されたのは、2004年。 意外に思われるかもしれないが、iPodは最初はあまり売れておらず、 Windows対応、iTune Music Store開始で普及した。 「iPodをつくった男」によると、以下のような経緯を重ねている。

  • 2002年度1Q(販売開始、最初の四半期) 13万台
  • 2002年度2Q, 3Q 5.7万台、5.4万台
  • 2002年度4Q 14万台(Windowsに対応)
  • 2003年2Q iTunesミュージックストア開始、10万台/月のペースに乗る
  • 2004年1月 iPod mini発表、25万台/月
  • 2004年7月 第4世代クリックホイールモデル 200万台/3ヶ月

iPod miniは、前刀禎明(よしあき)氏の発案による企画で日本での普及を加速した。

「スティーブ・ジョブズさんは"徹底的に考え抜いた"」前刀禎明さん | 制作後記 | クローズアップ現代 スタッフの部屋:NHK

日本限定版CMが作られているが、これは「アップル帝国の正体」によるとアップルとしては異例のこと。 キャッチフレーズは、「Hello iPod, Goodbye MD」。と言っても、今やMDが何かわからない人も多いかもしれない。

「僕は、だれの真似もしない:アップルがつまらなくなったから僕は辞めた (1/4) - ITmedia ビジネスオンライン」

その後、どうなっているかというと、iPhoneの発売によりiPod自体の販売台数は下がっている。 それについて、AV Watchの記事、「iPodは“衰退”した? iPodの歴史から考える音楽プレーヤーのこれから」(2014.8)がまとめている。

冒頭紹介した記事を書いたのはiPodが普及していた2008年だが、その時点で自分はiPodを購入していない。 しかし、iPodの広告を見たときの驚きは鮮明に記憶していて、それについて7年後文章にしたことになる。 広告写真で見たのは、自分が歴代のiPodの中でもっとも美しいと思っているホイールが二重になっている初代。 基本的なデザイン(と美しさ)は第4世代まで継承されていたが、第5世代以降何かが失われてしまったし、 自分は、iPod miniに美しさを感じられなかった。 今、手元にはオークションで購入した第4世代のiPodがある。今となっては大きくて、重いけれど、 いまだに新しく、美しい、そして驚くほど操作性が洗練されている(ジョブズは、「3ステップで曲を聴けるようにしろ」とオーダーしたという)。 ソフトウェアとして、完成されたもので、使うほどにほれぼれする。 そして、この第4世代のiPodは、ちゃんと2015年にiTunesに認識して画像が表示され、動作する (Podcastも使えて驚いた)。

iPodはミュージックプレイヤーの分野を越えて、それ以降の製品に影響を及ぼしている。 「白いヘッドフォン」はiPod以前にはなかったし、(ソースを確認していないが) 「電源スイッチをなくした」のもiPodが最初だったはずだ。

複数の文献、動画で目にしたが、ジョブズは「iPodこそもっともアップルらしい製品だ」と言っている。また、 「iPodはソフトウェアだ」とも。それについて、いずれ紹介する。 ところで、このブログで何度か紹介している西和彦氏は、冒頭紹介した記事に出てくる「月刊ASCII」を出版していたアスキー社の社長となる。 「月刊アスキー」は画像や古書を探したのだが、見つからなかった。「週刊アスキーの月刊版だろ」と思われると、まったく違うので 注意いただきたい(何を?)。

8/28/2015

ジョブズのこだわり (2)

Macintoshのプリント基板

これは有名なエピソードで、いろいろなところに書かれているが、「レボリューション・イン・ザ・バレー」から紹介する。

バレルは、プロジェクトのミーティングで、実際の大きさの4倍に拡大したプリント基板のパターンを紹介した。 ジョブズはそれに「純粋に美学的な見地」から、レイアウトを批評する。

「そこの部分は本当に美しい」と、彼は褒め称えた。「しかしメモリチップを見てみろ。そこは見苦しいな。ラインがくっつきすぎている。」

George Crowという雇われて間もないエンジニアが、ジョブズに言った。「プリント基板がどう見えるかなんて、誰が気にするんですか?大事なのは、どれだけうまく動作するってことでしょう。誰もプリント基板なんて見やしませんよ。

ジョブズは強い調子で反論する。

「俺が見るんだよ!俺は、たとえ箱の中に入っているものでも、可能なかぎり美しくあって欲しいんだ。優れた大工はキャビネットの裏に使うからといって、質の悪い木を選んだりしないものさ。そんなこと、誰も見なくてもな。」

Georgeとジョブズが言い合いを始めるが、バレルが提案する。

「ええと、そこんとこはメモリバスのせいでレイアウトが難しいんです」「もしそこを変えちゃうと、電気的にちゃんと動かなくなるかもしれません」。

ジョブズは、バレルの言葉を受け、「もっと基板が美しく見えるレイアウトを試してみて、それがうまく動かなかったら、元のレイアウトに戻す」ことになる。 そうして、何枚かの基板が作られたが、バレルの言ったように新しい基板は動作しなかった(もちろん、バレルは最初からそのことがわかっていたのだろう)。 そして、基板は結局元の設計に戻される。 これは、Macintoshの基板の話だが、初期のMacintoshは専用の工具がないと開けられないようになっていた。ジョブズは専用の工具を作ってまで、開けられたくなかった筐体の中の基板のパターンの美しさにこだわり、開発チームのサインを封印していた。

電卓のデザイン

これも「レボリューション・イン・ザ・バレー」に掲載されていたエピソード。

Macintoshは一度にひとつのアプリケーションしか実行できない、シングルタスクの仕様だった(なにしろメモリは128KBだったのだから当然だ)。 Macintoshには、デスクアクセサリーと呼ばれる特別なプログラムがあって、その中に電卓が含まれていた。 その設計を担当していたChris Espinosaはジョブズに電卓を見せるたびにけちをつけられ、ある日妙案を思いつく。 Chrisは、新しい電卓を作ることを繰り返す代わりに、「Steve Jobsの自分でできる電卓組み立てセット」アプリケーションを作り、それをジョブズに提供した。 そのアプリケーションを使うとプロダウンメニューで、線の太さ、ボタンの大きさなど電卓のあらゆる属性を変更できる。 ジョブズはそのアプリケーションで試行錯誤を繰り返し、Chrisはそのデザインを取り込み電卓を開発した。

8/27/2015

2015年、人々はシステム化の幻想にとりつかれ、いつしか人はシステムに使われるようになった

4月から職場と仕事が変わった。現在の仕事の内容は、ほとんど何でも屋だが、一言でいうと「営業」に近い。 これまでもデジタル放送の仕事など、内容が技術的で営業がわからないものにについて、 担当としては設計だが、提案など営業的活動を行ってきたことはあった、というか、ほとんどそうだった。 ただ、提案書作成や顧客説明はやっても、契約締結や利益管理、見積作成などは、営業本来の仕事として 携わったことはなかった。 しかし、今は営業的業務がメインなので、一日の大半をそれに割いている。 素人なので大変だ(笑)。

営業の業務では、契約が決裁が重要となる。 それらの業務は、対応するシステムがあり、システムにログインして行う。 そのため業務の内容の他に業務を行うシステムを理解しなければいけない。 多分、どこの会社でも同じと思うが、そうしたシステムの使い勝手は必ずしも良くない。 良くないけれど使わないわけにはいかないので、文句を言いながら工夫して使うのが 一般的だろう。

自分も毎日、RPGをやっている感覚で、まわりの人に聞きながら「電子決裁」システムを使っている。 使いながら「電子決裁システム」の本質がわかってきた気がする。 「電子決裁システム」の基本的な要素(機能)は以下にまとめられると思う。

  • 組織階層と権限内規に基づいたユーザ管理
  • ID管理(特に決裁番号の払い出し)
  • 情報のレイアウト
  • 文書の印刷
  • ファイルサーバー(様式、テンプレート、決裁文書)
  • 定義されたフローに基づき処理を回す

上記が複雑に絡み合って「電子決裁システム」を構成しているが、本当に「電子化」されるべきなのは、 「ID管理」ではないかと思う。 ID管理だけ、Excelで行い、あとは、20年(もっとかな?)以上前の紙の世界に戻したほうが、 実は業務が効率化する気がする。

利用イメージ

  • 決裁様式は、Word, Excelその他で作成し、ファイルサーバに保存しておく
  • ファイルを編集して印刷、あるいは様式に手書きして起案する
  • フローに従い承認してもらう
  • 決裁が完了したら総務担当(相当)が発番、ファイリングする

最初から電子決裁システムを使っている人は、「なんだそれ、ありえない」と思うかもしれないが、 メールやネットがない頃は、どんな大きな会社でもこのように回していた。だから、 できないことはない。「効率」については、ケースバイケースで、中には、電子決裁システムが 優れている部分もあると思うが、平均をとると電子化していないほうが効率が良いと自分は思う。

「もし」、本当に電子決裁をやめたら何が起こるかというと、「社員が話をするようになる」 (今は、「システムの運用担当に連絡してください」とか「マニュアルを読め」と言われる)。 昔の会社では、総務の人と話をしない日はなかったし、社員どうしもっと話をしたものだ(年寄り臭いけど、本当)。

「システム化」は、本当は人がゆとりを持つためのものだったはずだが、 いつのまにか義務となり、人がシステムに合わせることを強いられている、 「システムに人が使われている」そんな気がする。

8/25/2015

WozとALTAIR

ALTAIR8800というと、ポール・アレンとビル・ゲイツが見たこともない装置のBASICを書いたという伝説(事実)が有名だが、 のちにApple Computerを興すことになるウォズとジョブズも関係していたことが「アップルを創った怪物」に記載されている。

当時二人は、ホームブリュー・クラブに所属しており、ガレージで開催されていた会合には毎回30名程度が 参加していたという。ウォズとジョブズも、アレンとゲイツが読んだ「ポピュラー・エレクトロニクス」誌を読み、 ニューメキシコ州のMITS社と同社が開発したALTAIR8800の存在を知っていた。 ある日、その会合で8008マイクロプロセッサーの技術仕様が書かれたデータシートが配布された。 それを持ち帰ったウォズは、中に「メモリー内容をAレジスタに加える命令」があることに気がつく。 「アップルを創った怪物」から引用する。

えー!って感じさ。だからどうしたって思う人がいるかもしれないけど、この命令が何を意味するのか、僕はよくよくわかっていた。あのときほど興奮したことはなかった。それほどの発見だったんだ。 (中略) 可能性は無限だ。そのためにアルテアを買う必要なんてなかった。 全部、自分で設計すればいいんだ。 その夜、最初の会合があった日の夜、このとき、パーソナル・コンピュータと言ってもいいビジョンが僕の頭の中に浮かんだんだ。ボンっとね。そんな感じさ。 そしてその夜、僕は、のちにアップルIとして世に出るもののスケッチを書き始めた。

「メモリー内容をAレジスタに加える命令」について、アレンが書いた「アイデア・マン」に同一のより詳細な記載がある。 アレンもまたそれを見て一瞬ですべてを理解したことがわかる。 しかし、二人の天才の行動は大きく異なった。 アレンは、ALTAIRで動作するプログラムを書くことを考えたが、 ウォズはプロッセッサを含む装置(のちのパーソナル・コンピュータ)を「創る」ことを考えた。 それが、後のマイクロソフトとApple Computerにつながる。

Apple Computerとマイクロソフトを知らない人はいないが、MITS社のことを知る人はほとんどいないだろう。 MITS社こそが真の意味でパーソナルコンピュータの生みの親であり、「歴史を変えた会社」であると思う。 そのMITS社に起こったことについて、後日紹介したい。

2015 - 20 =

1995年の8月24日、Windows 95が発売された。

歴代のWindowsの起動音。さて、どのバージョンから起動音がついたでしょう?

8/23/2015

Fearless Genius

About FEARLESS GENIUS_rp from doug menuez on Vimeo.

この動画は、「無敵の天才たち(原題 Fearless Genius)」の著者が語っている。 この本はジョブズの写真集ではなく、「恐れを知らない天才たち」の写真集で、ジョブズはその一部だ。 気むずかしいジョブズが、なぜかDoug Menuezには撮影を認めたので、結果彼は多くのジョブズの写真を残している。 この本は、とても美しい本で、ページのデザインやフォントは明らかに自分のお気に入りの「レボリューション・イン・ザ・バレー」 (こちらもジョブズは脇役となる)を意識している。本の大きさは違うが、シリーズのようだ。 大きくて、重く、美しい。

この写真集に掲載されているジョブズの写真の一部は、下記のリンクで参照できる。

Steve Jobs by Doug Menuez - Storehouse

自分の印象に残った写真は、最初の一枚、"The Day Ross Perot Gave Steve Jobs $20 million"で、1986年に NeXT社の工場にする予定の倉庫で撮影されたものだ。

がらんとした部屋に、NeXTへの2000万ドルの出資を決断し、役員に加わったRoss Perot氏が、ジョブズとNeXTの役員が食事をしている。画面の右には、懐かしきオーバーヘッドプロジェクターが写っている。

Steve was a consummate showman who understood the power of a compelling setting. This was never more apparent than at this incongruously formal lunch he hosted for Ross Perot and the NeXT board of directors in the middle of the abandoned warehouse he planned to turn into the NeXT factory. Perot was blown away by the presentation and invested $20 million, becoming a key board member and giving NeXT a crucial lifeline.

8/22/2015

Windows 10 (GWX.exe, KB3035583)の闇

「あのマイクロソフトが、Windows 10について期間限定の無償アップデートを行う」というニュースを聞いて、 タスクバー右下にアップデート通知が表示されるのを待っていた人は多いだろう。自分もその一人だった。 VM, bootcamを含め、家族のPCすべてについて「Windows 10の予約」を行った。 しかし、自分のThinkPadで10を導入しながら、「これはおかしい」と感じた。 インストーラの推奨するままクリックしていくと、常時Windows 10がいろいろな情報をサーバに 登録することになる。それもユーザが管理できない形で。 もうこれは自動情報収集装置だ。

最初は推奨のまま導入したが、その後設定できる項目をひとつひとつ見直し、 プライバシーを保つ方向に変更していった。 あまりに項目が多く、デフォルトがオープン(プライバシーを失う)方に倒されている。 Windows 8まではユーザがコントロールするものだったのが、 Windows 10ではPCをクラウドの端末として登録するような印象を受け、Windows 8に戻した。

しかし、話はここで終わらない。 タスクバーに登録されたWindows 10の更新通知は、いなくならないし、終了させることも できない。クリックすると何事もなかったかのようにWindows 10の導入を開始させようとする。 タスクバーのプロパティで非表示にする以外、ユーザのコントロールはない。 プログラムのアンインストールをしようと思っても、コントールパネルの 導入済みプログラム一覧には現れない。 どうしてこのようにしているのか理解に苦しむ。

この記事に詳細な説明があるが、Windows 10の通知メッセージを出しているのは、 GWX.exeというアプリケーションで、それはKB3035583として導入されており、 アプリケーションでなく、「インストールされた更新プログラム」履歴を検索し、 アンインストールすることができる。 しかし、この更新プログラムは「重要な更新プログラム」になっており、 一般的な設定では、一度アンインストールしてもいつのまにか自動的に適用され、 ゾンビのようにタスクバーに復活する。

リンク先の記事に通知を見なくする手順が掲載されているが、 これを理解して行える人は少ないだろう。 インストール時にお勧めに従い、後から設定を見直す人は少なく、 結果膨大な利用者の情報が不定期にどこかのサーバに届けられることになる。 離れられる人は、Windows 10から離れたほうが良いと思う。

上級者向け手順

  1. コントロールパネル->Windows Update
  2. 導入済みの更新プログラムを表示
  3. KB3035583を探し、アンインストールする(この段階では右下のアイコンは残っている)
  4. Windows Updateの「設定の変更」を開き、「重要な更新」について、「更新するが、ダウンロードとインストールは確認する」を選択する
  5. 再起動
  6. Windows Updateを行う(環境によりかなり時間がかかる)
  7. 「オプションの更新」にKB3035583が含まれているので、チェックを外し、コンテキストメニューで「更新プログラムの非表示」を選択する
  8. (必要であれば)「設定の変更」を開き、「重要な更新」を「更新プログラムを自動的にインストールする(推奨)」にする
  9. アップデートを実行する

参考情報

8/21/2015

ビル・ゲイツの仕事ぶり

前回のエントリに続き、「ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト」から。著者のポール・アレンは、マイクロソフトを離れるまでの8年間、ゲイツとともにいただけあって、ゲイツに関するエピソードが多数含まれている。そこから印象的だったものを紹介する。

ゲイツとアレンが学校をやめて働き出したころのことだ。 2人はどれほど長い時間がかかろうと完全にバグがなくなったと思えるまでは作業の手を止めなかった。 ゲイツはいつも粉末のオレンジジュースが入った瓶を持っていて、疲れてきたと思ったら、 粉末を手のひらに乗せてなめていた、そんな生活を夏じゅう続けたので、 ゲイツの手はいつもオレンジ色をしていたという。

ALTAIRのBASICを開発していた頃、ゲイツは深夜の作業中によく端末の前でうたた寝をしていた。 コードを打ち込みながら徐々に前のめりになり、鼻がキーボードにあたる、そのまま 1,2時間眠ったあと目を覚まし、二度ほどまばたきすると、何事もなかったかのように作業を続行したという。 アレンは、「本当に信じがたいほどの集中力」だったと書いている。

ALTAIR用のフロッピーディスクドライブが開発されたときのことだ。 ドライブを扱えるようにBASICを拡張する必要があり、ゲイツがそれを担当した。 なかなか作業に着手しないゲイツを見て、アレンが心配すると「設計はもう頭の中にある」と答える。 締め切りまで10日に迫った頃、ゲイツはメモ帳三冊と10本の鉛筆を持ってホテルにこもり、 5日後でてきたときには何千バイトものアセンブリ言語ができていたという。

マイクロソフトを興し、社員を雇ってからのこと。 ゲイツの秘書は会社にくると自分のボスが床に倒れて意識を失っているのを見て狼狽し、人を呼ぶが、 「きっと週末ずっと作業していたんだろう。放っておいて問題ない」と言われる。

パソコン用OS黎明期、日本で何が起こっていたか

マイクロプロセッサが開発されてから、ALTAIR8800が生まれた。そこから、ワンボードコンピュータ(Apple I)、自作用キット(TK-80)、家庭用TV出力、オールインワン(Commodore PET)、現在の「PC」に至る標準化(IBM PC)という流れは、今振り返ると必然だ。

ソフトウェアは、当初はハンドアセンブルから始まり、最初はハードウェアごとに開発されていたが、当然ながら共通の基盤であるOSが必要となる。そして、基本的にはOSは勝者がすべてを取る。 いかにして、マイクロソフトがその覇者となり得たかは非常に興味深いが、それについて触れた文献は多くはない。自分が調べた中では、トム佐藤氏の「マイクロソフト戦記」が、 中の人の観点から詳しく参考になったがポール・アレンの「アイデア・マン」がそれをうまく補完してくれた。この2冊に登場する日本人が、元アスキーの西和彦氏で、その西氏が黎明期を振り返る動画が 公開されていて、シンクロニシティに驚いた。

実は、日本はIBM PCが登場する前に、8・16ビットPCの統一にアプローチできるところ、グローバルスタンダードに手の届くところにいた。それがMSXだ。 「マイクロソフト戦記」には、西氏がわずか半年間で日本の家電各社をまとめあげ、ビル・ゲイツが感嘆したことを含め、多くのエピソードが紹介されている。 MSXは、マイクロソフトとアスキーにより主導され、世界の標準となり得たが、空中分解してしまい、アスキーとマイクロソフトの関係も崩れた。 動画の中にも登場するが、日本で開かれたイベントで西氏が1億円をかけて(PCには関係のない)恐竜のセットを作った。 来日して会場を見たゲイツは、顔色が変わるほど怒りまくったそうだ。

MSXの崩壊は、皮肉にも日本の企業がWindowsに向かう流れを作っていくことになる。「マイクロソフト戦記」を読むと、 日本の企業がWindowsの発展に大きく寄与していることがわかるが、そこで不思議に思うのは、なぜ当時日本で独自のOSを作ろうとしなかったのか、ということだ。 開発する技術力とリソースは十分あったはずだが、結果的にはNECを筆頭に各社横並びにマイクロソフトを後押しした形になっている。

8/18/2015

ポール・アレンとビル・ゲイツが見たこともないALTAIR用のBASICを開発したという逸話は事実だった

ビル・ゲイツとともにマイクロソフトを興したポール・アレンの本、「ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト」(原題は、"IDEA MAN")を読んだ。

この本の中に、ゲイツに関してよく知られているエピソード、「実物を見たこともなかったALTAIR用のBASICを書いて、それが問題なく動作した」ことが詳しく書かれている。結論から言うと、驚くべきことにこのエピソードは、まったくの事実だったようだ。

アウトラインとしては、以下のようになる。

  • アレンが「ポピュラー・エレクトロニクス」誌に掲載されていたALTAIR8800の広告を目にする
  • ゲイツとアレンは、販売元であるMITS社に「自分たちはすでに8080用のBASICを開発している」と嘘の手紙を送る(返信はなかった)
  • ゲイツがMITS社に電話すると、同じような電話(売り込み)が一日十本もかかってきており、同社は「実際に8080上で動作するBASICをもってきた最初の人と契約する」つもりであることを知る(のちに、実は同社のエンジニアも8080用のBASICが本当に作れるか疑問視していたことがわかる)
  • アレンがPDP-10用の開発ツールを作成、それを用いてゲイツ、アレン、モンテの3名が競うように、根を詰めて作業、約8週間で完成する
  • 現地でのデモに向かう飛行機の中、アレンは「BASICだけあっても、ブートストラップローダがないと動かせない」ことに気づき、着陸までの時間に着ないでハンドアセンブルする
  • 生まれて初めて見る8800に紙テープでプログラムを読み込ませ、ブートストラップローダを動作させ、「RUN」スイッチを押すと、テレタイプ端末がメモリサイズの入力を促す、BASICは動作した
  • アレンは、BASICで「PRINT 2+2」を入力、8800は「4」と結果を返した

ゲイツとアレンは、これによりMITS社と契約し、そこからマイクロソフトの道のりが始まることになる。

本書は、マイクロソフトの驚異的な発展について、当事者が書いた記録であり、マイクロソフト社のみならずパーソナルコンピュータの歴史資料として大変貴重なものと思う。今後、他のトピックも紹介していきたい。

夏休みの宿題

8月17日、夏休み最後の日、帰省先の新潟から半日かけて車を運転し、横浜に戻ってきた。翌日から勤務なので、早く休めば良いのだけれど、 眠れなさそうだったので、HP200LXの工作をした。

HP200LXは、実に18年という長いブランクの後に再度利用を始めた。その経緯については、NTTデータ先端技術社のコラムで紹介しているが、毎日どこにも行くにも持ち歩いている。もともと所有していたのは1台だが、調子が悪かったのでオークションで予備機を含め2台を購入し、手元に3台の筐体がある。オークションで購入、メインで利用していた機体は、その後「ビネガーシンドローム」と呼ばれる、液晶画面が見えなくなる事象(経年劣化により避けられないようだ)が進行していた。もともと所有していた機体は、液晶はきれいなのだが、キーボードが一部入力できなくなり、界面活性剤を使っても改善しなかった。HP200LXは分解手順の画像や動画が多数公開されているので、それらを見ながら、正常に動作するキーボード、マザーボード(というか基盤)、きれいな液晶の組み合わせを作るというのが、自分に貸した夏休みの宿題だ。

結論から言うと、3台の機体を分解、組み替えを行い、2台の正常に動作する機体を用意することができた。この分解と組み立ては、(情報があっても)なかなか難度が高かったが、「失敗したら駄目にするかもしれない」という気持ちで、行う作業は、独特な味わいがあり、LXへの思い入れはさらに高まるのであった。

参考文献の管理

今後、同じような講義の依頼を受けることはないと思うが、参考資料について後から活用できるようにしておきたいので、BibTeXで残しておくことにした。

文献をBibTeXで残しておきたい(管理したい)ニーズは、一般的であり、方法について簡単に見つかるかと思ったら、実際にはそうではなかった。試行錯誤の結果以下の形態にたどりついた。

  • 独立したBibtexファイルを作成し、platexとpbibtexを使用する
  • \nocite{*}により、Bibtexファイルに登録されている全エントリを出力させる
  • エンコーディングはUTF-8とする(Windows上では、platex, pbibtexについて-kanji utf8オプションの指定が必要)
  • BibTexファイルの編集は、JavRefを用いる
  • URLを含むものについては、Bookではなく、Miscを指定し、howpublishedにURLを記載

8/02/2015

F3をオーバーホールした

ニコンの銀塩一眼レフを3台持っている。EL2, F3, F4。

F3は生産が終了してからオークションで購入したものだが、2015年7月末でサポートを終了するという アナウンスを見てから、ずっと迷っていたが結局オーバーホールに出し、先週引き取ってきた。 F3の発売は、1980年、2000年まで20年間にわたり販売されたこのカメラを愛する人は多く、 F4のサポート終了後もずっとニコンはサポートを続けてきたが、ついに2015年7月31日に 終了した。もう壊れても修理はできない。

7/28/2015

ジョブズ、スタンフォード大学伝説のスピーチのオリジナル

2005年、ジョブズがスタンフォード大学卒業式で行った「伝説のスピーチ」。 あまりに有名なこのスピーチには、多くの動画が登録されている。 元のリソースは、スタンフォード大学が撮影した録画(ビデオテープ)があるはずで、それを保有するスタンフォード大学が本家になる。 その意味で、下記のページに埋め込まれた動画がスタンフォードお墨付きのオリジナルと言って良いはずだ。

>Text of Steve Jobs' Commencement address (2005)

ただし、動画を再生するとわかるが、大阪弁のキャプションがついていて、ジョブズが訛っている。なんでやねん? というか、これはいただけない。 別に大阪弁が悪いのではなく、発言している草稿を動画と一緒に読むことができない。

この他にも日本語を含むキャプションを追加するなど加工したものが多数登録されていて、状況は混乱している。 「オリジナルに近い動画をオリジナルのキャプションで」読もうとすると面倒だ。 多くの動画はジョブズのスピーチのみだが、次の動画は学長によるジョブズの紹介が含まれており、 オリジナルに近いものと思われる。学長による経歴の紹介を待つ間、ジョブズは用意したプリントを確認しているが、 ときどき視線をあげて周囲を見回している。

この伝説のスピーチは素晴らしいものだが、おそらく期待されていた内容ではなかったと思っており、 その説明が講演の主題のひとつとなっている。たまたま、2014年にBill Gates夫妻が同じ スタンフォード大学でスピーチを行っている動画があった。もともと期待されていたのは、 こうした内容だろうと思っている。映像の違いが、9年間の月日を物語る。

動画ではなく、音声のほうは、 スタンフォード大学がiTunes用に無償で公開しており、話は簡単だ。

Commencement - Download free content from Stanford on iTunes

7/24/2015

iPod(第4世代、モノクロ)を買う

講演の名称は、仮称として「よりよく生きるためのプレゼンテーション入門」を事務局に連絡している。 構成はまだ決めていないけれど、講演の主題にジョブズのスタンフォード大学のスピーチを入れるつもりで、 Amazonから「参考図書」を何冊か購入した。もともと持っていた書籍を含め、すでに十冊以上読んでいる。 この調子で買っていると古書と言っても馬鹿にならないので、職場の近くにある中央区の図書館に 登録してそちらからも本を借りている。 書籍以外に、YouTUBEのほうも調べていて、それはそれで「関連する動画」という形でどんどん広がり、 もういくら時間があっても足りない。ほどほどにしようと思う。

いろいろ調べているうちに、iPodが欲しくなってきた(「調べた結果欲しくなった理由」については、 長くなるのでいずれまた)。新しいiPodではなく、 Susan Kareのフォントを搭載している第4世代以前のモノクロモデルだ。 ということで、ヤフオクで購入した。

7/12/2015

久しぶりの講演

10月に某大学で、学生達に話をすることになった。 何を話そうかといろいろ考え、「プレゼンテーション」について話をすることにした。 それで、講演の素材集めを始めて、これはそのひとつ。

2/01/2015

BlueSkyさんからの返信

昨年9月から現在の所属であるNTTデータ先端技術のWebページに連載している「安らかな夜を迎えるために」の第13回にHP200LXの記事を書いた。

この連載は、不定期掲載と言いながらきっちりと2週間間隔で掲載されている。執筆のフローは、半田さんから原稿をもらう、それを読んでからおもむろに自分の記事を考え始める、というもので、ずっと変わっていない。「次に何を書こうか」というのは、バックグラウンドの中で考え続けているけれど、毎回の記事はゆっくり考えたり、推敲する時間はなく、平均すると1本の記事を1時間くらいで書いている。半田さんからは、「(半田さん分の記事と内容的にリンクしていないのだから)書きためておくと良い(にゃー)」と言われるのだけれど、どうも「未来の分を記事を書きためておく」気がしなくて、半田さん分記事を受け取ってからストップウォッチが回り始める。

この記事は、TDLの記事と同様に実際にあった出来事をもとに書いており、ノンフィクションだ。やたらと注釈が多いのは、すでになくなった技術でこれが思いのほか多く、末尾のリンクが長くなってしまった(行間が大きくて見た目がきれいでないのでなんとかならないか事務局に聞いたところ、Dropalの仕様で変えられないそうだ)。PCMCIAのところは、本当は歴史的変遷があり、PCカードになったりしているのだけれど、その辺を調べ出すと遅くなるのであのようになっている。

検索してみるとわかるが、HP200LXはまだまだ現役で使われており、オークションなどから入手できるし、修理もできる。ブログ記事もある。なかに、大変参考にさせていただいたのが、"We love HP200LX"というところで、その作者、BlueSkyさんに記事のことをお知らせしていた。本当は、内容のチェックをお願いしたかったのだけれど、時間がないし、厚かましいので控えていた。そのBlueSkyさんから、記事を読んだというメールをいただいた。連載記事には、いつもわかる人にだけわかるメッセージを潜ませているけれど、それがBlueSkyさんに伝わったことがよくわかった。同じ世代で、同じようにHP200LXを使っている方だからこそわかっていただけた。それがうれしかった。

ところで、この記事には(今のところ)リンクがない。それはBloggerのリンクの記法を知らない(調べていない)からだ。特定のシステムやツールの仕様を覚えて(調べて)、それに合わせて書くのが面倒というか、そういうことをできるだけしたくないと思っている。はてなダイアリーもWikiもそうだ。StackEditは、実際に使ってみたところ悪くないと思った。表現力は限られているけれど、気にせず苦にならず書ける。でも、StackEditで書いたものをBloggerにpublishして、というのはやはり、たかが日記を書くためにすることとしては大げさすぎる気がする。

自分も、昔は、Emacs+PSGMLで「誤りのないHTMLやXML」を書いていたわけ。その頃は時間もあった(正確には、「今ほど時間が限られているという実感がなかった」)。でも、今は時間があったとしてもまたやろうとは思わない。「正しくなかったとしても読めればいいじゃないか」と考えている自分がいる。

1/26/2015

MCPCで講演した

知人から組み込みのセキュリティについて話をして欲しいと頼まれた。組み込み技術者でもなんでもないので断っていたのだけれど、何でも良いから(笑)と言われて、引き受けることにした。
午前11時から午後12時半くらいまで、東京タワーの近くにある機械振興会館の会議室でLinuxのセキュリティについて話をした。予想どおり平日はまったく準備の時間がとれず、土日の夜、夏休みの宿題状態で用意した。

講演の資料は既存のものを再利用したが、新規に作成したものはStackEditを使ってみた。

StackEditは、Blogger, Tumbrへのpublishに対応している。このエントリは、StackEditで書いたものを転送してみたものだ。スムーズに連携できるが、StackEditで日々のエントリを作成しようとする場合、問題があることに気がついた。

StackEditで日記を書く場合、ファイル名を決めた上で、文書を作成し、文書の中にタイトルをマークダウン記法で記述する。作成者の気持ちとしては、ファイル名は無視して、マークダウンされたタイトルをBloggerのエントリのタイトルにして欲しいが、実際にはファイル名がタイトルにされてしまう。そのため、ファイル名とタイトルを同じにすると、Broggerでは冗長に見えてしまうのだ。