8/31/2015

ジョブズが遺したもの

「ジョブズが遺したものは何か」と聞かれたら、多くの人は、「Mac, OSX, iPhone, iOS, iTunesMusicStore」などと答えるだろう。 しかし、意外なところに大きな足跡が残されている。 「インサイド・アップル」他に、ジョブズとディズニーの交渉について書かれている。

話の前提として、ディズニーについて知る必要がある。 まず、ディズニーはニューヨーク市長をイベントのホストにするほどの強大な力を持っている。 そして、ディズニーは、ウォルト・ディズニーの死後、進むべき道を失い、ヒット映画を出せないでいたし、 デジタル化に備えができていなかった。 ディズニーはあまりに有名で、誰もそのビジネスが行き詰まることを考えないが、実際には 白雪姫など過去の名作を食いつぶす状態になっていた。 「ディズニーランドがあるじゃないか」と思うかもしれないが、 ディズニーランドは、映画で知られたキャラクターによるビジネスなので、 映画がヒットしないと行き詰まる。

「インサイド・アップル」から引用する

すでに触れたように、1996年にウォルト・ディズニーが死去したあと、ディズニーの経営陣が長年「ウォルトならどうする?」と問いつづけたことはよく知られている。だが、ウォルト・ディズニー・カンパニーはアップルがまねてはいけない前例である。ウォルトの死後、会社が急激に傾いたからだ。
ディズニーのアニメ映画がまた軌道に乗ったのは、1988年公開の『ロジャー・ラビット』と翌年の『リトル・マーメイド』からだ。 (中略) パラマウントからディズニーに移ったCEOマイケル・アイズナーのもとで2作品は成功したものの、ディズニーはイノベーションの面で大きく立ち遅れた。ジョブズが資金を出したピクサーは、コンピュータを利用したアニメーションの将来に早くから気づいていた。結局、ディズニーがみずから生み出した分野で最新のテクノロジーに追いつくには、ピクサーを買収するしかなかったのだ。

ジョブズに関係なく、ピクサーはトイストーリーを制作する契約を結んでいたが、 その契約は、圧倒的にディズニーが有利なものであった。 ジョブズはトイストーリーの成功により、ディズニーと交渉し、他とはあり得ない内容にする (その具体的内容は後で追記する)。 ディズニーとピクサーの契約内容は、目に見えないが、目に見える変化がある。 ジョブズは、ピクサーのロゴについて、「ディズニーと同じ大きさにする」ことを ディズニーに飲ませた。ディズニーランドでもディズニーストアでも、 あるいは、DVDでも見るとわかる。すべてに「ピクサー」の名前とロゴが 巨人、ディズニーと対等に並んでいる。

このような契約は、巨人ディズニーにとって、屈辱的であり得ないものであり、 ディズニーの経営陣は話を聞いたとき激怒し抵抗したが、それが 株主の怒りを買い、経営陣自体が追い出されることになる。

ピクサーは今はディズニーに買収されているが、 ピクサーのWebページを見てもどこにもディズニーの名前は登場しない。 ピクサーはピクサーとして、名前と尊厳を持ちながら、生き続ける。 ジョブズが意思にしたがって。

8/30/2015

Wozの魔法使い

僕はジョブズを嫌いだった

「レボリューション・イン・ザ・バレー」の推薦文には、はっきり書いていないが、 自分は以前、ジョブズが嫌いだった。 その頃、自分が持っていたジョブズのイメージは、「技術者であるウォズの仕事で金を稼ぎ、自分を売り込むプロモーター」だった。 ウォズが表に出ない分、ジョブズの存在を苦々しく感じていた。 ウォズが並外れて優れた技術者であること、ジョブズが技術者でないことを自分がいつ どのように知ったか、今は確かめることすら難しくなったけれど、 一つ明確に覚えている記事がある。 それはウォズがApple ][のFDドライブについて、確か1985年か翌年くらいの (こちらも自信がないが)日経バイトに掲載された翻訳記事だと思う。 日経バイトは、技術指向で大変拡張が高く、優れた記事を掲載していて、 「混沌の館」というコラムが有名だった(このコラムが日経バイトに掲載されていたことは 確認しているが、自分が覚えているウォズの記事が本当にその雑誌に掲載されているかは、 現状未確認だ)。 自分はその記事の技術的な内容を理解できなかったけれど、その価値とウォズの資質を感じることができた。 その記事のコピーを取って、時折読み返していたが、失われてしまって残念に思っている。

「アップルを創ったもう一人の怪物」に、FDドライブ、というよりは「Apple ][のDisk II」のことが 詳細に書かれている。それを読んで、昔自分が感銘を受けた記事が読みたい気持ちが高まっている。 「ジョブズが技術者ではなく、プログラムを書いたり、製品を創っていないこと」は、 今や証跡を必要としないと思うが、「スティーブ・ジョブズ」には、ウォズの父親が ジョブズに「お前は、(Apple ][について)何も貢献していないじゃないか。それなのに 取り分が半分ずつって、おかしいだろ?」と詰め寄られたことが書かれている。 ジョブズは、泣きべそをかいて、「わかったよ。それならウォズが全部とって、自分でやれば良いよ」と 言ったのだ。 もし、そこで本当にそうしていれば、今の世界はいろいろ変わっていたことだろう。

取り分について

「アイデア・マン」に、ポール・アレンとビル・ゲイツの間のおもしろい エピソードが書かれている。

ビルはいきなり本題に入った。「これまで、BASICの仕事は、ほとんど僕がやってきたよね。 それに、僕はハーバードを休学するためにいろんなものを捨ててきた」 彼はそう言った。「取り分、今は六対四になってるけど、僕がもっともらってもいいんじゃないかと思うんだ」
「どれだけならいいの?」
「64対36でどうかな?」

結局、アレンはゲイツの提案を受け入れるが、本にはアレンがその時のことを回想した内容が書かれている。 アレンはゲイツと離れてから、「あの時の64%という数字がどこからきたか」考える、そして、次の結論に達する。
「今、自分は最大でいくらまでなら取れるか」おそらくそれがビルの発想の基本だったのだろう。 2対1とまで言ってしまうと、さすがに私が納得しないことはわかっていたのだ。 だから、それより少し譲歩した64%あたりが限度と思ったわけだ。 貢献度に基づいた数字だと彼は言いたかったのだろうが、私は、ここに図書館員の息子(アレンのこと)と弁護士の息子(ゲイツのこと)の違いが 出たと思っている。

ウォズに興味がある方に、「アップルを創ったもう一人の怪物」以外にお薦めしたいのは、斎藤由多加さんの 「マッキントッシュ伝説」だ。 この本の帯には「天才は何を探求していたのか?"創造者"たちによるMacintosh開発秘話!」とある (実はウォズはMacintosh開発には関わっていないが)。 この本は、斎藤さんがアメリカに一人一人取材に行った内容を書き下ろしたものだが、 Macやジョブズについて書かれた書籍の中できわめて優れ、価値が高い、また読んでおもしろい。 著者の斎藤さんは、一世を風靡したシーマンの開発者で、アップルについては、もう一冊、 「林檎の樹の下で ~アップルはいかにして日本に上陸したのか」を書かれている。 こちらは、タイトルどおりアップルの日本語化および販売について、関係者しか知らなかった 歴史を書いたもので、読後感はあまり良くない(それは斎藤さんの責任ではなく、 経緯がすっきりしないものがあるのだ)。

Wozの魔法

「マッキントッシュ伝説」から、ウォズの言葉を引用する。

私の生涯で最高の仕事はフロッピーディスクドライブだと思っています。 二番目がApple ][です。ソフトウェアであれ、ハードウェアであれ、 私が手掛けてきたプロジェクトの課題は絶対的に「小さい」ということです。 いつでも、でき得る限り最小かつ簡潔で完璧なものになるよう毎晩遅くまで努力しました。

記事との再会

スクラップしていたWozのインタビュー記事について、それが日経バイトに掲載されていたことを思い出したので、 掲載号がわからないか調べていたが結局見つからなかった。しかし、それが「バイト・レポート」(BYTE誌の記事の翻訳)であったことが、 わかったので、キーワードを工夫して調べていて、元記事を見つけた。記事は、2回に分けて掲載されている。

上記の記事は、1984年にBYTE誌に掲載されたと書いてある。それが日本語に翻訳されて日経バイトに掲載されたのはいつか 確認できていないが、自分が就職した1985年前後に違いない。もう30年前に読んだ記事だけれど、記事に掲載されていたウォズの 顔写真は確かに日本語の記事でも使われていた。

8/29/2015

iPodとの出会い

以前、TOMOYO Linuxに関する連載をSoftwareDesignに掲載いただいて技術評論社さんから、「SDの記事を執筆いただいている方に、若い技術者への推薦図書を紹介してもらう企画を考えています。ご協力いただけませんか?」と お話をいただいた。「もちろん」ということで、候補を2冊考えたが、最終的に選んだのが「レボリューション・イン・ザ・バレー」。企画は「SD執筆陣が薦めるこの一冊」として実現し、2009年1月号に小冊子として添えられた(自分は今もその小冊子を持っている)。 この頃は、めちゃくちゃ忙しく、原稿は依頼をいただいてから30分くらいで書き下ろした。この画像は、初稿ゲラのPDF。

この号が出た2009年12月の頃には、ジョブズは日本ではあまり知られていなかった気がする。 他のSD執筆者の方々の推薦図書にも、ジョブズやアップル関連の書籍はなかった。

初代のiPodが発売されたのは、2004年。 意外に思われるかもしれないが、iPodは最初はあまり売れておらず、 Windows対応、iTune Music Store開始で普及した。 「iPodをつくった男」によると、以下のような経緯を重ねている。

  • 2002年度1Q(販売開始、最初の四半期) 13万台
  • 2002年度2Q, 3Q 5.7万台、5.4万台
  • 2002年度4Q 14万台(Windowsに対応)
  • 2003年2Q iTunesミュージックストア開始、10万台/月のペースに乗る
  • 2004年1月 iPod mini発表、25万台/月
  • 2004年7月 第4世代クリックホイールモデル 200万台/3ヶ月

iPod miniは、前刀禎明(よしあき)氏の発案による企画で日本での普及を加速した。

「スティーブ・ジョブズさんは"徹底的に考え抜いた"」前刀禎明さん | 制作後記 | クローズアップ現代 スタッフの部屋:NHK

日本限定版CMが作られているが、これは「アップル帝国の正体」によるとアップルとしては異例のこと。 キャッチフレーズは、「Hello iPod, Goodbye MD」。と言っても、今やMDが何かわからない人も多いかもしれない。

「僕は、だれの真似もしない:アップルがつまらなくなったから僕は辞めた (1/4) - ITmedia ビジネスオンライン」

その後、どうなっているかというと、iPhoneの発売によりiPod自体の販売台数は下がっている。 それについて、AV Watchの記事、「iPodは“衰退”した? iPodの歴史から考える音楽プレーヤーのこれから」(2014.8)がまとめている。

冒頭紹介した記事を書いたのはiPodが普及していた2008年だが、その時点で自分はiPodを購入していない。 しかし、iPodの広告を見たときの驚きは鮮明に記憶していて、それについて7年後文章にしたことになる。 広告写真で見たのは、自分が歴代のiPodの中でもっとも美しいと思っているホイールが二重になっている初代。 基本的なデザイン(と美しさ)は第4世代まで継承されていたが、第5世代以降何かが失われてしまったし、 自分は、iPod miniに美しさを感じられなかった。 今、手元にはオークションで購入した第4世代のiPodがある。今となっては大きくて、重いけれど、 いまだに新しく、美しい、そして驚くほど操作性が洗練されている(ジョブズは、「3ステップで曲を聴けるようにしろ」とオーダーしたという)。 ソフトウェアとして、完成されたもので、使うほどにほれぼれする。 そして、この第4世代のiPodは、ちゃんと2015年にiTunesに認識して画像が表示され、動作する (Podcastも使えて驚いた)。

iPodはミュージックプレイヤーの分野を越えて、それ以降の製品に影響を及ぼしている。 「白いヘッドフォン」はiPod以前にはなかったし、(ソースを確認していないが) 「電源スイッチをなくした」のもiPodが最初だったはずだ。

複数の文献、動画で目にしたが、ジョブズは「iPodこそもっともアップルらしい製品だ」と言っている。また、 「iPodはソフトウェアだ」とも。それについて、いずれ紹介する。 ところで、このブログで何度か紹介している西和彦氏は、冒頭紹介した記事に出てくる「月刊ASCII」を出版していたアスキー社の社長となる。 「月刊アスキー」は画像や古書を探したのだが、見つからなかった。「週刊アスキーの月刊版だろ」と思われると、まったく違うので 注意いただきたい(何を?)。

8/28/2015

ジョブズのこだわり (2)

Macintoshのプリント基板

これは有名なエピソードで、いろいろなところに書かれているが、「レボリューション・イン・ザ・バレー」から紹介する。

バレルは、プロジェクトのミーティングで、実際の大きさの4倍に拡大したプリント基板のパターンを紹介した。 ジョブズはそれに「純粋に美学的な見地」から、レイアウトを批評する。

「そこの部分は本当に美しい」と、彼は褒め称えた。「しかしメモリチップを見てみろ。そこは見苦しいな。ラインがくっつきすぎている。」

George Crowという雇われて間もないエンジニアが、ジョブズに言った。「プリント基板がどう見えるかなんて、誰が気にするんですか?大事なのは、どれだけうまく動作するってことでしょう。誰もプリント基板なんて見やしませんよ。

ジョブズは強い調子で反論する。

「俺が見るんだよ!俺は、たとえ箱の中に入っているものでも、可能なかぎり美しくあって欲しいんだ。優れた大工はキャビネットの裏に使うからといって、質の悪い木を選んだりしないものさ。そんなこと、誰も見なくてもな。」

Georgeとジョブズが言い合いを始めるが、バレルが提案する。

「ええと、そこんとこはメモリバスのせいでレイアウトが難しいんです」「もしそこを変えちゃうと、電気的にちゃんと動かなくなるかもしれません」。

ジョブズは、バレルの言葉を受け、「もっと基板が美しく見えるレイアウトを試してみて、それがうまく動かなかったら、元のレイアウトに戻す」ことになる。 そうして、何枚かの基板が作られたが、バレルの言ったように新しい基板は動作しなかった(もちろん、バレルは最初からそのことがわかっていたのだろう)。 そして、基板は結局元の設計に戻される。 これは、Macintoshの基板の話だが、初期のMacintoshは専用の工具がないと開けられないようになっていた。ジョブズは専用の工具を作ってまで、開けられたくなかった筐体の中の基板のパターンの美しさにこだわり、開発チームのサインを封印していた。

電卓のデザイン

これも「レボリューション・イン・ザ・バレー」に掲載されていたエピソード。

Macintoshは一度にひとつのアプリケーションしか実行できない、シングルタスクの仕様だった(なにしろメモリは128KBだったのだから当然だ)。 Macintoshには、デスクアクセサリーと呼ばれる特別なプログラムがあって、その中に電卓が含まれていた。 その設計を担当していたChris Espinosaはジョブズに電卓を見せるたびにけちをつけられ、ある日妙案を思いつく。 Chrisは、新しい電卓を作ることを繰り返す代わりに、「Steve Jobsの自分でできる電卓組み立てセット」アプリケーションを作り、それをジョブズに提供した。 そのアプリケーションを使うとプロダウンメニューで、線の太さ、ボタンの大きさなど電卓のあらゆる属性を変更できる。 ジョブズはそのアプリケーションで試行錯誤を繰り返し、Chrisはそのデザインを取り込み電卓を開発した。

8/27/2015

2015年、人々はシステム化の幻想にとりつかれ、いつしか人はシステムに使われるようになった

4月から職場と仕事が変わった。現在の仕事の内容は、ほとんど何でも屋だが、一言でいうと「営業」に近い。 これまでもデジタル放送の仕事など、内容が技術的で営業がわからないものにについて、 担当としては設計だが、提案など営業的活動を行ってきたことはあった、というか、ほとんどそうだった。 ただ、提案書作成や顧客説明はやっても、契約締結や利益管理、見積作成などは、営業本来の仕事として 携わったことはなかった。 しかし、今は営業的業務がメインなので、一日の大半をそれに割いている。 素人なので大変だ(笑)。

営業の業務では、契約が決裁が重要となる。 それらの業務は、対応するシステムがあり、システムにログインして行う。 そのため業務の内容の他に業務を行うシステムを理解しなければいけない。 多分、どこの会社でも同じと思うが、そうしたシステムの使い勝手は必ずしも良くない。 良くないけれど使わないわけにはいかないので、文句を言いながら工夫して使うのが 一般的だろう。

自分も毎日、RPGをやっている感覚で、まわりの人に聞きながら「電子決裁」システムを使っている。 使いながら「電子決裁システム」の本質がわかってきた気がする。 「電子決裁システム」の基本的な要素(機能)は以下にまとめられると思う。

  • 組織階層と権限内規に基づいたユーザ管理
  • ID管理(特に決裁番号の払い出し)
  • 情報のレイアウト
  • 文書の印刷
  • ファイルサーバー(様式、テンプレート、決裁文書)
  • 定義されたフローに基づき処理を回す

上記が複雑に絡み合って「電子決裁システム」を構成しているが、本当に「電子化」されるべきなのは、 「ID管理」ではないかと思う。 ID管理だけ、Excelで行い、あとは、20年(もっとかな?)以上前の紙の世界に戻したほうが、 実は業務が効率化する気がする。

利用イメージ

  • 決裁様式は、Word, Excelその他で作成し、ファイルサーバに保存しておく
  • ファイルを編集して印刷、あるいは様式に手書きして起案する
  • フローに従い承認してもらう
  • 決裁が完了したら総務担当(相当)が発番、ファイリングする

最初から電子決裁システムを使っている人は、「なんだそれ、ありえない」と思うかもしれないが、 メールやネットがない頃は、どんな大きな会社でもこのように回していた。だから、 できないことはない。「効率」については、ケースバイケースで、中には、電子決裁システムが 優れている部分もあると思うが、平均をとると電子化していないほうが効率が良いと自分は思う。

「もし」、本当に電子決裁をやめたら何が起こるかというと、「社員が話をするようになる」 (今は、「システムの運用担当に連絡してください」とか「マニュアルを読め」と言われる)。 昔の会社では、総務の人と話をしない日はなかったし、社員どうしもっと話をしたものだ(年寄り臭いけど、本当)。

「システム化」は、本当は人がゆとりを持つためのものだったはずだが、 いつのまにか義務となり、人がシステムに合わせることを強いられている、 「システムに人が使われている」そんな気がする。

8/25/2015

WozとALTAIR

ALTAIR8800というと、ポール・アレンとビル・ゲイツが見たこともない装置のBASICを書いたという伝説(事実)が有名だが、 のちにApple Computerを興すことになるウォズとジョブズも関係していたことが「アップルを創った怪物」に記載されている。

当時二人は、ホームブリュー・クラブに所属しており、ガレージで開催されていた会合には毎回30名程度が 参加していたという。ウォズとジョブズも、アレンとゲイツが読んだ「ポピュラー・エレクトロニクス」誌を読み、 ニューメキシコ州のMITS社と同社が開発したALTAIR8800の存在を知っていた。 ある日、その会合で8008マイクロプロセッサーの技術仕様が書かれたデータシートが配布された。 それを持ち帰ったウォズは、中に「メモリー内容をAレジスタに加える命令」があることに気がつく。 「アップルを創った怪物」から引用する。

えー!って感じさ。だからどうしたって思う人がいるかもしれないけど、この命令が何を意味するのか、僕はよくよくわかっていた。あのときほど興奮したことはなかった。それほどの発見だったんだ。 (中略) 可能性は無限だ。そのためにアルテアを買う必要なんてなかった。 全部、自分で設計すればいいんだ。 その夜、最初の会合があった日の夜、このとき、パーソナル・コンピュータと言ってもいいビジョンが僕の頭の中に浮かんだんだ。ボンっとね。そんな感じさ。 そしてその夜、僕は、のちにアップルIとして世に出るもののスケッチを書き始めた。

「メモリー内容をAレジスタに加える命令」について、アレンが書いた「アイデア・マン」に同一のより詳細な記載がある。 アレンもまたそれを見て一瞬ですべてを理解したことがわかる。 しかし、二人の天才の行動は大きく異なった。 アレンは、ALTAIRで動作するプログラムを書くことを考えたが、 ウォズはプロッセッサを含む装置(のちのパーソナル・コンピュータ)を「創る」ことを考えた。 それが、後のマイクロソフトとApple Computerにつながる。

Apple Computerとマイクロソフトを知らない人はいないが、MITS社のことを知る人はほとんどいないだろう。 MITS社こそが真の意味でパーソナルコンピュータの生みの親であり、「歴史を変えた会社」であると思う。 そのMITS社に起こったことについて、後日紹介したい。

2015 - 20 =

1995年の8月24日、Windows 95が発売された。

歴代のWindowsの起動音。さて、どのバージョンから起動音がついたでしょう?

8/23/2015

Fearless Genius

About FEARLESS GENIUS_rp from doug menuez on Vimeo.

この動画は、「無敵の天才たち(原題 Fearless Genius)」の著者が語っている。 この本はジョブズの写真集ではなく、「恐れを知らない天才たち」の写真集で、ジョブズはその一部だ。 気むずかしいジョブズが、なぜかDoug Menuezには撮影を認めたので、結果彼は多くのジョブズの写真を残している。 この本は、とても美しい本で、ページのデザインやフォントは明らかに自分のお気に入りの「レボリューション・イン・ザ・バレー」 (こちらもジョブズは脇役となる)を意識している。本の大きさは違うが、シリーズのようだ。 大きくて、重く、美しい。

この写真集に掲載されているジョブズの写真の一部は、下記のリンクで参照できる。

Steve Jobs by Doug Menuez - Storehouse

自分の印象に残った写真は、最初の一枚、"The Day Ross Perot Gave Steve Jobs $20 million"で、1986年に NeXT社の工場にする予定の倉庫で撮影されたものだ。

がらんとした部屋に、NeXTへの2000万ドルの出資を決断し、役員に加わったRoss Perot氏が、ジョブズとNeXTの役員が食事をしている。画面の右には、懐かしきオーバーヘッドプロジェクターが写っている。

Steve was a consummate showman who understood the power of a compelling setting. This was never more apparent than at this incongruously formal lunch he hosted for Ross Perot and the NeXT board of directors in the middle of the abandoned warehouse he planned to turn into the NeXT factory. Perot was blown away by the presentation and invested $20 million, becoming a key board member and giving NeXT a crucial lifeline.

8/22/2015

Windows 10 (GWX.exe, KB3035583)の闇

「あのマイクロソフトが、Windows 10について期間限定の無償アップデートを行う」というニュースを聞いて、 タスクバー右下にアップデート通知が表示されるのを待っていた人は多いだろう。自分もその一人だった。 VM, bootcamを含め、家族のPCすべてについて「Windows 10の予約」を行った。 しかし、自分のThinkPadで10を導入しながら、「これはおかしい」と感じた。 インストーラの推奨するままクリックしていくと、常時Windows 10がいろいろな情報をサーバに 登録することになる。それもユーザが管理できない形で。 もうこれは自動情報収集装置だ。

最初は推奨のまま導入したが、その後設定できる項目をひとつひとつ見直し、 プライバシーを保つ方向に変更していった。 あまりに項目が多く、デフォルトがオープン(プライバシーを失う)方に倒されている。 Windows 8まではユーザがコントロールするものだったのが、 Windows 10ではPCをクラウドの端末として登録するような印象を受け、Windows 8に戻した。

しかし、話はここで終わらない。 タスクバーに登録されたWindows 10の更新通知は、いなくならないし、終了させることも できない。クリックすると何事もなかったかのようにWindows 10の導入を開始させようとする。 タスクバーのプロパティで非表示にする以外、ユーザのコントロールはない。 プログラムのアンインストールをしようと思っても、コントールパネルの 導入済みプログラム一覧には現れない。 どうしてこのようにしているのか理解に苦しむ。

この記事に詳細な説明があるが、Windows 10の通知メッセージを出しているのは、 GWX.exeというアプリケーションで、それはKB3035583として導入されており、 アプリケーションでなく、「インストールされた更新プログラム」履歴を検索し、 アンインストールすることができる。 しかし、この更新プログラムは「重要な更新プログラム」になっており、 一般的な設定では、一度アンインストールしてもいつのまにか自動的に適用され、 ゾンビのようにタスクバーに復活する。

リンク先の記事に通知を見なくする手順が掲載されているが、 これを理解して行える人は少ないだろう。 インストール時にお勧めに従い、後から設定を見直す人は少なく、 結果膨大な利用者の情報が不定期にどこかのサーバに届けられることになる。 離れられる人は、Windows 10から離れたほうが良いと思う。

上級者向け手順

  1. コントロールパネル->Windows Update
  2. 導入済みの更新プログラムを表示
  3. KB3035583を探し、アンインストールする(この段階では右下のアイコンは残っている)
  4. Windows Updateの「設定の変更」を開き、「重要な更新」について、「更新するが、ダウンロードとインストールは確認する」を選択する
  5. 再起動
  6. Windows Updateを行う(環境によりかなり時間がかかる)
  7. 「オプションの更新」にKB3035583が含まれているので、チェックを外し、コンテキストメニューで「更新プログラムの非表示」を選択する
  8. (必要であれば)「設定の変更」を開き、「重要な更新」を「更新プログラムを自動的にインストールする(推奨)」にする
  9. アップデートを実行する

参考情報

8/21/2015

ビル・ゲイツの仕事ぶり

前回のエントリに続き、「ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト」から。著者のポール・アレンは、マイクロソフトを離れるまでの8年間、ゲイツとともにいただけあって、ゲイツに関するエピソードが多数含まれている。そこから印象的だったものを紹介する。

ゲイツとアレンが学校をやめて働き出したころのことだ。 2人はどれほど長い時間がかかろうと完全にバグがなくなったと思えるまでは作業の手を止めなかった。 ゲイツはいつも粉末のオレンジジュースが入った瓶を持っていて、疲れてきたと思ったら、 粉末を手のひらに乗せてなめていた、そんな生活を夏じゅう続けたので、 ゲイツの手はいつもオレンジ色をしていたという。

ALTAIRのBASICを開発していた頃、ゲイツは深夜の作業中によく端末の前でうたた寝をしていた。 コードを打ち込みながら徐々に前のめりになり、鼻がキーボードにあたる、そのまま 1,2時間眠ったあと目を覚まし、二度ほどまばたきすると、何事もなかったかのように作業を続行したという。 アレンは、「本当に信じがたいほどの集中力」だったと書いている。

ALTAIR用のフロッピーディスクドライブが開発されたときのことだ。 ドライブを扱えるようにBASICを拡張する必要があり、ゲイツがそれを担当した。 なかなか作業に着手しないゲイツを見て、アレンが心配すると「設計はもう頭の中にある」と答える。 締め切りまで10日に迫った頃、ゲイツはメモ帳三冊と10本の鉛筆を持ってホテルにこもり、 5日後でてきたときには何千バイトものアセンブリ言語ができていたという。

マイクロソフトを興し、社員を雇ってからのこと。 ゲイツの秘書は会社にくると自分のボスが床に倒れて意識を失っているのを見て狼狽し、人を呼ぶが、 「きっと週末ずっと作業していたんだろう。放っておいて問題ない」と言われる。

パソコン用OS黎明期、日本で何が起こっていたか

マイクロプロセッサが開発されてから、ALTAIR8800が生まれた。そこから、ワンボードコンピュータ(Apple I)、自作用キット(TK-80)、家庭用TV出力、オールインワン(Commodore PET)、現在の「PC」に至る標準化(IBM PC)という流れは、今振り返ると必然だ。

ソフトウェアは、当初はハンドアセンブルから始まり、最初はハードウェアごとに開発されていたが、当然ながら共通の基盤であるOSが必要となる。そして、基本的にはOSは勝者がすべてを取る。 いかにして、マイクロソフトがその覇者となり得たかは非常に興味深いが、それについて触れた文献は多くはない。自分が調べた中では、トム佐藤氏の「マイクロソフト戦記」が、 中の人の観点から詳しく参考になったがポール・アレンの「アイデア・マン」がそれをうまく補完してくれた。この2冊に登場する日本人が、元アスキーの西和彦氏で、その西氏が黎明期を振り返る動画が 公開されていて、シンクロニシティに驚いた。

実は、日本はIBM PCが登場する前に、8・16ビットPCの統一にアプローチできるところ、グローバルスタンダードに手の届くところにいた。それがMSXだ。 「マイクロソフト戦記」には、西氏がわずか半年間で日本の家電各社をまとめあげ、ビル・ゲイツが感嘆したことを含め、多くのエピソードが紹介されている。 MSXは、マイクロソフトとアスキーにより主導され、世界の標準となり得たが、空中分解してしまい、アスキーとマイクロソフトの関係も崩れた。 動画の中にも登場するが、日本で開かれたイベントで西氏が1億円をかけて(PCには関係のない)恐竜のセットを作った。 来日して会場を見たゲイツは、顔色が変わるほど怒りまくったそうだ。

MSXの崩壊は、皮肉にも日本の企業がWindowsに向かう流れを作っていくことになる。「マイクロソフト戦記」を読むと、 日本の企業がWindowsの発展に大きく寄与していることがわかるが、そこで不思議に思うのは、なぜ当時日本で独自のOSを作ろうとしなかったのか、ということだ。 開発する技術力とリソースは十分あったはずだが、結果的にはNECを筆頭に各社横並びにマイクロソフトを後押しした形になっている。

8/18/2015

ポール・アレンとビル・ゲイツが見たこともないALTAIR用のBASICを開発したという逸話は事実だった

ビル・ゲイツとともにマイクロソフトを興したポール・アレンの本、「ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト」(原題は、"IDEA MAN")を読んだ。

この本の中に、ゲイツに関してよく知られているエピソード、「実物を見たこともなかったALTAIR用のBASICを書いて、それが問題なく動作した」ことが詳しく書かれている。結論から言うと、驚くべきことにこのエピソードは、まったくの事実だったようだ。

アウトラインとしては、以下のようになる。

  • アレンが「ポピュラー・エレクトロニクス」誌に掲載されていたALTAIR8800の広告を目にする
  • ゲイツとアレンは、販売元であるMITS社に「自分たちはすでに8080用のBASICを開発している」と嘘の手紙を送る(返信はなかった)
  • ゲイツがMITS社に電話すると、同じような電話(売り込み)が一日十本もかかってきており、同社は「実際に8080上で動作するBASICをもってきた最初の人と契約する」つもりであることを知る(のちに、実は同社のエンジニアも8080用のBASICが本当に作れるか疑問視していたことがわかる)
  • アレンがPDP-10用の開発ツールを作成、それを用いてゲイツ、アレン、モンテの3名が競うように、根を詰めて作業、約8週間で完成する
  • 現地でのデモに向かう飛行機の中、アレンは「BASICだけあっても、ブートストラップローダがないと動かせない」ことに気づき、着陸までの時間に着ないでハンドアセンブルする
  • 生まれて初めて見る8800に紙テープでプログラムを読み込ませ、ブートストラップローダを動作させ、「RUN」スイッチを押すと、テレタイプ端末がメモリサイズの入力を促す、BASICは動作した
  • アレンは、BASICで「PRINT 2+2」を入力、8800は「4」と結果を返した

ゲイツとアレンは、これによりMITS社と契約し、そこからマイクロソフトの道のりが始まることになる。

本書は、マイクロソフトの驚異的な発展について、当事者が書いた記録であり、マイクロソフト社のみならずパーソナルコンピュータの歴史資料として大変貴重なものと思う。今後、他のトピックも紹介していきたい。

夏休みの宿題

8月17日、夏休み最後の日、帰省先の新潟から半日かけて車を運転し、横浜に戻ってきた。翌日から勤務なので、早く休めば良いのだけれど、 眠れなさそうだったので、HP200LXの工作をした。

HP200LXは、実に18年という長いブランクの後に再度利用を始めた。その経緯については、NTTデータ先端技術社のコラムで紹介しているが、毎日どこにも行くにも持ち歩いている。もともと所有していたのは1台だが、調子が悪かったのでオークションで予備機を含め2台を購入し、手元に3台の筐体がある。オークションで購入、メインで利用していた機体は、その後「ビネガーシンドローム」と呼ばれる、液晶画面が見えなくなる事象(経年劣化により避けられないようだ)が進行していた。もともと所有していた機体は、液晶はきれいなのだが、キーボードが一部入力できなくなり、界面活性剤を使っても改善しなかった。HP200LXは分解手順の画像や動画が多数公開されているので、それらを見ながら、正常に動作するキーボード、マザーボード(というか基盤)、きれいな液晶の組み合わせを作るというのが、自分に貸した夏休みの宿題だ。

結論から言うと、3台の機体を分解、組み替えを行い、2台の正常に動作する機体を用意することができた。この分解と組み立ては、(情報があっても)なかなか難度が高かったが、「失敗したら駄目にするかもしれない」という気持ちで、行う作業は、独特な味わいがあり、LXへの思い入れはさらに高まるのであった。

参考文献の管理

今後、同じような講義の依頼を受けることはないと思うが、参考資料について後から活用できるようにしておきたいので、BibTeXで残しておくことにした。

文献をBibTeXで残しておきたい(管理したい)ニーズは、一般的であり、方法について簡単に見つかるかと思ったら、実際にはそうではなかった。試行錯誤の結果以下の形態にたどりついた。

  • 独立したBibtexファイルを作成し、platexとpbibtexを使用する
  • \nocite{*}により、Bibtexファイルに登録されている全エントリを出力させる
  • エンコーディングはUTF-8とする(Windows上では、platex, pbibtexについて-kanji utf8オプションの指定が必要)
  • BibTexファイルの編集は、JavRefを用いる
  • URLを含むものについては、Bookではなく、Miscを指定し、howpublishedにURLを記載

8/02/2015

F3をオーバーホールした

ニコンの銀塩一眼レフを3台持っている。EL2, F3, F4。

F3は生産が終了してからオークションで購入したものだが、2015年7月末でサポートを終了するという アナウンスを見てから、ずっと迷っていたが結局オーバーホールに出し、先週引き取ってきた。 F3の発売は、1980年、2000年まで20年間にわたり販売されたこのカメラを愛する人は多く、 F4のサポート終了後もずっとニコンはサポートを続けてきたが、ついに2015年7月31日に 終了した。もう壊れても修理はできない。